時代はこうして変わっていく 〜 「コロナ後の世界」
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昨日コロナ後の世界について書いたが、その続き。
昨日の記事はこちら。
昨日書いていてまだ言葉にならなかった部分が言葉になってきたので書いてみたい。
まだ熟成期間が短いのでうまくまとめられるか分からないけど。
昨日も書いたけど、バブル期までの日本人、特に東京に住んでいた人達はいまよりもかなり夜更かしだったと思う。
サラリーマンが平日でも終電が終わるまで飲み歩いていて、バーなんかは毎晩午前2時とか3時まで営業していた。
僕は高校2年生から六本木のカフェ・バーでアルバイトを始めたが、外苑東通りのジャック & ベティーの近くにあったそのお店は毎日朝の6時まで営業していたが、すごく繁盛していた。
僕が高校2年というと1986年で、バブルが始まるかどうかというくらいの時期だ。
その後株価的には1989年(平成元年)の年末最終日が日本の株の最高値である3万8,957円44銭を記録して、翌年1990年から長い長い下落の時期に入っていく。
でも不動産はまだまだ上がっていて、実際にバブル崩壊の足音が聞こえてきたのは1992年くらいからだっだ。
僕は1988年から1994年春までずっと六本木と銀座の飲食店でアルバイトをしていた。パブレストラン、フランス料理屋、オーセンティックなバー、ブラッセリー、イタリア料理店などを経験した。
最後の銀座のイタリア料理店でアルバイトをしている間にバブルが崩壊していった。
当時の日本のレストラン業界というのは今よりもずっと未成熟で、客の方も「食を楽しむ」というよりは、「飲む」とか「踊る」とか、騒ぐ方に意識が向いていたように思う。
だから「会食」というよりは、一次会は適当に食べて、そのあと飲んだり踊ったりする時間の方に重きが置かれていた感覚だ。
僕の母はバブル直前まで西麻布でピアノバーを経営して自ら演奏もしていたが、毎晩午前2時くらいまで営業していたんだから、いかに当時の日本人が夜更かしだったか分かる。
風営法が改正されてディスコは午前0時閉店が強制されたが、当時は「軽く食事」→「ディスコ」→「バー」みたいな流れで遊んでいる人が多かった。
西麻布にも六本木にも、個人経営の小さなバーがあちこちにあって、毎晩賑わっていた。いまでも探せば多少バーはあるが、当時に比べると圧倒的にバーの数は減ってしまった。
食事を済ませたらディスコで踊りバーに移動して飲むという文化が衰退した最大の理由は、「サラリーマンが交際費とタクシーチケットを自由に使えなくなったから」だと僕は当時から思っていた。
バブル期は会社はだぶついた利益を税金に取られるくらいならと、社員に交際費とタクシーチケットをばらまいていた。
だからサラリーマンは会社の経費で同僚や取引先と酒を飲み、会社の経費で真夜中にタクシーで帰宅できていた。
その交際費やタクシーチケットがバブル崩壊で真っ先に引き締められることになり、サラリーマンは毎夜会社の経費で出歩いて深夜まで飲んだくれる生活を諦めることになったのだ。
そしてバブル期に繁盛していたディスコやバーがどんどん潰れ、その後には何故かもつ鍋屋が続々とできた。
そして多くの人々は自腹でもつ鍋屋で食事をしながら飲んで、そのあとカラオケボックスに行き、終電までには家に帰るようになり、ディスコやバーの文化はどんどん衰退していき今に至る。
僕の世代くらいまではギリギリ「六本木や西麻布の町からバーが消えてしまうのは寂しいなぁ」と思っているかもしれないが、いまの30代の人とかは、恐らくもともと「食事のあとにバーに行く」というイメージを持っていない人がほとんどではないかと思う。
そうやって文化は変化していく。
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