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昔の話

「叱る」と「怒る」

「叱る」と「怒る」は違う。
教育に携わる者ならば、必ずと言っていいほど聞いたことのある話。
「怒ってはいけません。叱りましょうね。」
わかってはいるけど、難しい。

叱る→相手の非を指摘、説明し、きびしく注意を与える意。腹をたてているわけではない…
怒る→不満・不快なことがあって、がまんできない気持ちを表す。腹を立てる。

goo辞書(https://dictionary.goo.ne.jp/)

何年も教育の現場に立って、何度も同じ失敗をした。
叱れずに、怒った。
生徒に、保護者に、そして社員に。
そういう日のことが、未だに不思議とよく思い出されて苦しくなる。「怒られて」いるときの相手の顔が、声が、何年たっても仄暗い映像と、それに似つかわしくないぐらいの鮮明な音声で蘇ってくる。

たかしくん

大学生の時、アルバイトで塾の教師をはじめた。
母の手伝い感覚で地元名古屋の学習塾で、芝居の稽古の合間で1年ぐらいやって、その後劇団の解散とともに東京都内の大手学習塾のアルバイトに応募した。
留年が決まっていたので早くお金を稼ぎたくて、場所はどこでもいいから仕事が欲しいと言ったら、東京都八王子市の自宅から電車で2時間半かかる千葉県八千代市の校舎に行かされることになった。
受け持ったのは6年生。中学受験クラスの国語だ。
そんなに人数は多くないクラス。男子が圧倒的に多くて発言力がある。
第一志望の中高一貫に落ちたはやとくんは、昨日調べたらゲーム会社でプランナーとして活躍していた。クラスでいちばん優秀なそうくんは国立大の医学部に合格していた。
そんなクラスの中で、ひときわ手を焼いたのが、たかしくんだ。
今になって思うと、ADHDとか、多動とか、その傾向の強い子。いくら言っても枠の中に漢字を書けない。にこにこと授業を聞いていたと思って指名すると、「え、何でしたか?」と返ってくる。記述問題は完全に放棄。

そんな子が、90分の授業を2コマも受けるのだ。中学受験は本当に恐ろしい。たかしくんに限らず集中力のない子はたくさんいたし、加えて2つの授業の間には30分の休憩があり、ここで生徒はご飯を食べている。2コマ目の始まりを集中して迎えるためにとにかくいろんな工夫を凝らした結果、もっともうまくいったのは「授業開始の20秒前からコーラ500mLをイッキ飲みして、ゲップしないで授業に入る」という芸だった。毎週中休みの最後にコーラを持ってきて、生徒を座らせた後にコーラを飲む。内容はともかく、少なくとも生徒たちは固唾をのんで私の授業を見守っていた(なお一度もゲップはしなかった。)

たかしくんを「怒った」あの日

話はたかしくんにもどる。
そんなこんなで新人土本の授業は、拙いながらも子どもたちに受け入れられていった。むしろあの頃のほうが、生徒に話を聞かせることにいろんな工夫をしていたのかもしれない。
ところがある日、事件が起きた。
コーラを飲み干して授業に入ろうとした瞬間のことだった。
「先生って、たらこくちびるですよね」
天真爛漫な瞳で、にこやかにたかしくんが言った。
人生で言われたことは一度もなかった。小学生の時、たらこくちびるをいじられている男子がいた。嫌がっているそぶりは全くなかったし、なんなら自分の似顔絵をくちびる強調で書いているような子だったから、そんなに気にしてもいなかったのだろうけれど。少なくとも自分ではない誰かの特徴を表す言葉だと思っていたから、唐突に言われて驚いた。と同時に怒った。
「人の見た目のことを言うんじゃない!」
みたいなことを言った気がする。めちゃくちゃ頭に血が上ったことと、たかしくんがものすごくさみしそうにこっちを見ていたことだけ覚えている。ただ90分の授業を終えるころには元通りだ。怒られた張本人が一番ケロッとしているから、他の子たちもいつも通りに授業を受けて、いつも通りに帰っていった。帰りの電車の中で思い出して、あぁ今日はやってしまったな、怒ってしまったな、と今度は自分に対して怒れてきた。乗り換えの時にトイレによって、鏡を見た。下唇が大きく突き出た自分の姿を見て、今までみんなそう思ってたけど言わなかったんだろうな、と思った。
しばらく時がたってさらに、「たらこくちびる」って、本人は悪口じゃなくて特徴のつもりで言ったんじゃないか?という考えが頭を巡った。1つのことに執着する性格がこういう場面で顔を出す。先生ってイケメンですよね、先生って鼻高いですよね、先生って巨乳ですよね、と同じぐらいのノリで言ったんじゃないか、そんな風に思うようになった。ただそのことを確認することはないまま、時は流れて彼らは巣立っていった。
確か1月には問題演習ばかりの授業になっていたので、わざわざ私が遠方からくる必要がない、ということになり、実は彼らの受験を見届けていない。一足早くにあった公立中高一貫の結果、不合格だったはやとくんの暗い顔しか記憶にない。

「たらこくちびる」の真実

時は流れて、私の職業は塾教師になった。
感情的に怒りをぶつけてしまう場面は、だんだんと減っていった。
話が上手になって、コーラなんか飲まなくても生徒は話を聞いてくれるし、叱りすぎがたたって「逆鱗土本」なんてニックネームを陰でつけられてしまったことがわかって恥ずかしくなって、だんだんと穏やかになっていった。
それでも、直情的で短気な性分は、今も直っているような気はしない。

社会人になって4年目。プライベートでとんでもない失敗をした。
世の中に出せないレベルの失敗で、とにかく落ち込んだ。
その時話を聞いてくれた友人に、話の終わりに全然関係ない話として首の痛みを相談したら、検査をちゃんと受けるよう勧めてくれた。
友人の父が医師だから、すぐに連絡してくれて紹介状も書いてくれた。
MRI検査の翌日、すぐに呼び出された。

脳下垂体腺腫
下垂体腺腫はホルモン産生つまり内分泌に関わる下垂体と呼ばれる器官のなかで、その前葉と呼ばれる部分から発生する腫瘍です。 成人(20歳から50歳)に多く、3番目に多い脳腫瘍です。 殆どが良性であり、悪性のものはごく稀です。

秋田県立循環器・脳脊髄センター
https://www.akita-noken.jp/general/sick/brain-nerve/page-2048/

良性の場合がほとんどなので命に別状はないが、成長ホルモンの異常産生によって先端巨大症を発生するタイプの腫瘍がある。私はこれ。
大きくなった場合、視神経の圧迫による視野狭窄が自覚症状として現れる場合がある。
私の場合は発覚時点ですでに視野狭窄も起こっており、手術での全摘も困難な状態になっていた。

先端巨大症
骨端線閉鎖後に下垂体から成長ホルモン(GH)が長期間にわたり過剰に分泌されることによって生ずる病態である. 手足末端の肥大や顔貌の変化に加えて,糖尿病などの代謝異常,心肥大や慢性呼吸不全などの循環器や呼吸器合併症,更に腫瘍の発育を促進する慢性疾患である.

小児慢性特定疾病情報センター
https://www.shouman.jp/disease/details/05_03_004/

専門医に行って、顔面をチェックされて、
「鼻孔の周りが異常に厚いですし、下唇も肥大していますね。先端巨大症で間違いないと思いますよ」
と言われた時、たかしくんのことを思い出した。
そうだ、あのときすでにおかしかったのか。

たかしくんが何を感じて、どんな気持ちでたらこくちびるって言ったのか、今はもう知る由もない。24歳になったであろうたかしくんと仮に再会したとて、向こうはそもそも覚えていないぐらいの些細なことなのかもしれない。
けれど、今でも先端巨大症の治療と向き合いながら、叱れなかった自分自身と向き合っている。そのきっかけをくれたたかしくんに、いつかお礼が言いたいと思っている。

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