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平和主義についての小考と提案(後編)

 実際に「平和の機関」とでも言うべきものを設けるとして、それがどのようなものであるべきか、どのような特異な役割を果たすと期待出来るのかという点を考えてみたいと思います。


 まず、「平和主義の機関」が存在することは、本朝の平和主義の実践の象徴となりと考えられます。つまり、本朝の平和主義が空虚な言説に過ぎないものではないということを分かりやすく伝えるものであります。よしんば空虚な言説に過ぎない場合でさえ、そうでないように思わせるものであると言っても良いかもしれません。況や、本朝の現実に於いてをや、です。また「平和主義の機関」は、ある特定の政策、ある特定の運動ではなく、本朝の平和主義の営み全体の象徴となることと考えられます。それは、本朝に於ける平和のための様々な形・様々な目的の政策や施策、運動を総合し、「平和国家」という形に統合・回収するのです。毎年のように戦争と平和に関しての国民の立場を再確認したり平和への決意を高め直したりすることが求められていることを考えれば、それはどこか平和主義が形を持たないものであったことも大きかったのではないのでしょうか、平和国家のアイデンティティは、平和主義の実践を象徴するものが「平和主義」という形に多くの営みを統合し回収するその場に於いて強化され、再び国民を平和主義へ向かわせるものでもあります。

 また、それが「平和主義の機関」であるかはともかくとして、平和国家の象徴なるものについて対外的な機能も求めることは無理ではないと思われます。端的に言えば、対外的に平和国家であると思われていることは、それが単なるプロパガンダに過ぎないものであったとしても有利に働きます。今後国力に不安の大きい本朝にとって、平和国家として国民の政治的な生活が魅力あることは重要になっていくことでしょう。日本には「平和主義の機関」があるのだ、という言葉にしやすい言説はその一助となるものでしょう。

 このような点から言えば、「平和主義の機関」を、単独の組織あるいは単独の主語で説明できるものであるのが比較的良いと思われます。単独の主語で説明できる、というのは、即ち、例えば「軍」という言い回しで、部隊、官衙、その他の組織の総称に十分なるという意味です。しかし、これについては、あくまで広報や用語の問題で、組織としてはともかく平和主義の為の機関であると言えるものがあれば良いと言えましょう。


 「平和主義の機関」がともかく設置されたならば、そこに一定数専属のスタッフが配されることは、まあ、当然でしょう。言説としての平和主義を効果があるものとして発揮させるものは、法であり人でありますが、それら含めて、専門知が極めて重要です。現実に臨む営みの中で、学問が追究するものとしても形成される専門知は、現実に作用しうる力とその力を用いる際の諸注意を導く統治の知であり、統治を有効たらしめる統治の根幹です。官僚であれ、専門家であれ、「平和主義の機関」の職員に求められるのは、その専門知を担うこと、あるいは専門知を担う人々のある種の中核であったり、その人々が焦点とする場であったりすることです。これは、換言すれば単純なことで、国家国民のものとしての平和主義を掲げて、政策や施策を決断し実践し、妥協したり諦めたりする、その担当者が存在するということです。また政策や施策を決断し実践し、妥協したり諦めたりするそのことで、平和主義が効果あるものとして発揮されるということです。「平和主義の機関」は、平和の為の専門知の場、それを集約するセンターとして機能しなくてはなりません。

 そうであればこそ、平和主義を政策に反映させたり平和主義に基づく施策を求めたりすることは、有効で有意義なものとして説得的にもなります。「平和主義の機関」が国家レベルの機関として存在すればそれだけで政策決定過程にある程度参加できることと思われますが、平和主義の専門機関として、そして出来れば内閣の行政機関として、広く政策決定過程に参画するべきであると思われます。

 そして「平和主義の機関」は、つまり、その職員は、その幾分かを所管に加え、他の幾分かを監督するものとしたり、指定事業というような名前を付けたりすることで、国家国民の平和の為の政策の当局となり、その過程はまた専門知を形成する場であるのです。これは、既存の政策を平和に貢献するという観点から、評価し体系づけ、本朝の平和主義の実践として総括するという点でも意味があることです。

 ここまでは、平和に限らず、ある物事について専門の行政機関を設ける時には常に言えるようなことを言ってきてしまったのでありますが、本朝の平和主義に関しては、専門知の集約、そしてその、政策や施策を決断し実践し、妥協したり諦めたりするという意味での実践の場があることにはとりわけ意味があるよう考えられます。というのも、これまでの本朝の平和主義を、先述の通り「局外中立」、なにもしない平和主義であったと考えれば、また実際本朝の平和主義が多くの活動を為してきたことを考えれば酷く極端な言い方ですが、本朝の平和主義が言説としては有力でも実践の面では乏しい側面があり、そしてそれが問題視されなかった側面があったからであります。少なくとも筆者はそう感じています。しかもそれは、本朝に於いて平和主義を尊ぶ感性が極めて広くもたれ、多くの思想と思索が平和というものに集中されているにも拘わらず、なのです。そこに於いて「平和主義の機関」が、平和主義の実践の核として、その豊かな平和のための感性と思想とを集中して実践へ転化するものとして機能するものとして考えたいのです。重ね重ね嫌味かつ極端な言い方をすれば、現実に臨まない空虚な言説に過ぎない側面も強かった平和の思想と思索を、現実に臨む場へ引き摺り出し活用する場として、「平和主義の機関」やその職員を考えたいのです。この立場はつまり、平和主義の「空虚な言説」が単に空虚なものではないと信じる立場でもあります。


 ここからは、「平和主義の機関」について更に一歩進んだところを考えたいと思います。「平和主義の機関」は、自衛隊、防衛関係に近い立場のものとして設けられなくてはならないと考えたい。公営の平和団体をつくるというよりはむしろ、第4の自衛隊、第2の防衛省を作るくらいの心持すらあります。

その点だけからという訳でもありませんが、行政の中枢を担い事務等を行う機関の他に、多くの人々が参加し得るような枠組みを備えて、その全体として「平和主義の機関」とするべきと思われます。それは「平和主義の機関」が行う政策や施策を実行する人員となり、いわば、防衛省に対する陸海空自衛隊、警察庁に対する警視庁や道府県警察の役割を果たすものとなるものです。そのような職業としてのものでなくとも、JICAの青年海外協力隊やアメリカの平和部隊(Peace Corps)のようなボランティアであったり、日本赤十字社の会員のような支援者の地位の構成員であったりするかもしれません。本朝について言えば戦後平和主義の成果でありましょう、かなり多くの平和団体が存在し、また、国民の相当数が平和の有意義な活動に貢献し得る場があればそこへ参加することをしばしば考え、その一部の、平和の為に努力することを望む人々も少なくないことと思われます。この結構な数の団体、平和の為に努力することを望む人々を、「平和主義の機関」は利用し、またそこへ糾合し、集積しなくてはならいものと考えます。そのための枠組みでありますが、ここでは仮に「集団」と呼んでおくことにしましょう。少なくとも万単位のものを考えています。

 「平和主義の機関」をあくまで防衛に近い立場のものとして作るべきという文脈を抜きにしても、「集団」は、国家予算で、また「平和主義の機関」ひいては国の責任で、いわゆる平和教育等の今まで多くの平和団体が担ってきた活動を行ったり、国家機関としての「平和主義の機関」戦争や紛争の帽子の為に非暴力的な対話を求めて仲介をし、物資・経済・政治的な圧力をかけるときにそれを擁護したりするような役割を果たすと考えられます。また「集団」を構成する多くの人間は、「平和主義の機関」を媒介して作り上げられる、かなりの専門性があるものとしての平和思想を受容し、実践することを求められ得る人材となります。また「平和主義の機関」の下に「集団」として既存の平和団体などを結集することは、既存の平和団体の思索や活動を「平和主義の機関」のものに取り入れ、また政策決定過程に取り入れることに繋がることに期待したいものです。といっても、「集団」を設けるということは、それこそJICAや自衛隊、日本赤十字社、既存の多くの平和団体と少なからず競合して問題になることであり、さて、設けるべきか。


 防衛の立場に近いものとして作るという点から言えば、「集団」の意味は大きいものになると考えています。

 戦時下に於いて、国民の避難や避難先での物資管理、捕虜の取り扱い等を担う、その意味での戦争協力を行うのです。どれほど防衛関係に近い立場で作るかにもよりましょうが、銃後として戦争を支援する活動も含まれるかもしれず、その意味では多くの銃後団体が先例となりましょう。ともかく、そのような活動をし得る、少なくともある程度は訓練を受けた人材が万単位で存在すれば、戦禍を低減することに繋がると考えられます。赤十字と競合する部分も大きいので、設置するならば詳細を詰めておく必要があります。

 また、先述の通り、本朝の平和主義は本朝が戦争から離れている故に可能になっている部分があると考えますが、本土が危険にさらされたり、それによって実際に平和主義の立場が極めて脆弱になったりしたとしても、「平和主義の機関」や「集団」が存在することが次の戦後に平和主義を持ち越す働きをすることを期待するものです。

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 また本朝が将来的に徴兵制を施行することに陥った際、良心の自由による兵役の拒否であれ、兵役からの逃亡であれ、兵役の代替として拒否者などを受け止め、社会貢献を行う場を提供する組織としても、「集団」を考えたいと思います。

 このようなものとしての「集団」には先例があります。筆者が念頭に置いているのは東ドイツの「建設部隊(Baueinheiten)」です。東ドイツは共産主義に則って自国を平和国家と定義し、国家人民軍(東ドイツ軍)は戦争の原因である所の資本主義・帝国主義を打ち破る為の平和の軍隊であると定義し、それ故に、徴兵を拒否するものはいてはならなかったのであり、そのため、そこに於いて強いて徴兵を逃れようとする者に対しては、実際に武器を取って戦場へ行く義務のない建設部隊へ、代替として徴発することで、半ば懐柔し半ば兵役への従事を強制した、建設部隊とはそういう部隊であります。時期的にも限られるもので、あくまで筆者の大まかな理解です。本朝では市川ひろみ氏が建設部隊について詳しいようです。「平和主義の機関」の「集団」は、建設部隊の日本版としての役割も期待したいのです。

 ただし、これはあくまで建設部隊の日本版に“過ぎない”ものではありません。そもそも「平和主義の機関」は防衛諸関係と極めて深い関係があっても、その附属物に留まるものではないものであるべきで、「集団」も自衛隊その他の附属物に過ぎないものではないものですが、ただしそれについては別で述べたつもりですし、ここでは、自衛官の戦傷者を積極的に受け入れる役割や、作戦・戦争単位でのいわゆる良心的兵役拒否にあたるもの(市川ひろみ氏の言う「選択的兵役拒否」)をした人物を至極簡単に、何でもないように受け入れる役割も担うものとしたい故であります。なおそのような意味でも、平時の内から自衛隊に近い地位や雰囲気が「集団」には必要と思われます。

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 さて「平和主義の機関」を設置することそのものがという話でもありましょうが、「集団」は、平和運動へ対する、その一部のみに公的な立場を与える形での統制となります。特に、それが既存の平和団体を糾合すること、吸収することを前提にしていることには注意しなくてはなりません。

 平和運動の一部、しかながら少なからず目立つ部分に、共産主義やアナーキズムに依拠する反国家主義や、文字通りの反日思想が色濃く反映されたものがあります。少なからず、日常そのものを道徳的に否定する側面があるものです。また、そういうものも含めて、少なからず党派性が反映されているにも拘わらず平和のためなのだから党派を超えて結びつくべきというような言葉を使う運動があれば、それはその党派に従えという言葉に受け取られうるものですし、そうでなくとも党派性が表れているものは目立ちます。加えて、多くの人がすでに平和の重要性を理解している中で、敢えて、平和を守ること、戦争へ反対するという基本的な所から叫ぶということは、その言葉が批判し、あるいは語り掛ける所の(その語り掛ける主体に政治的に近しくない)相手が、平和を守らず、戦争を望んでいると印象付ける効果があります。このような説明を抜きにして、平和を求め反戦を求める運動という営みそのものが、どこか胡散臭く、危うい所すらあるものがあるという意識がそれなりに広まっている現実は、見なくてはなりません。筆者自身その意識をもっています。国民のものとしての平和主義になりえない運動が、また、平和の為と呼ばれ、かつその言説の構造が人々の反感や懐疑を喚起するような運動が、一部とはいえあるのです。

 平和主義は、国民のもの、国民が広く承認するものでなくてはなりません。「平和主義」やそれに類する言葉が思い起こさせるものが、国民にとって受け入れがたいものの延長線のものとしてではならないし、「平和主義」やそれに類する言葉に反感や懐疑を覚える人は少なくなくてはならないと思われます。平和運動の一部のみを優遇する形での統制としての「平和主義の機関」の統制は、平和の為の運動と呼ばれるものの、その主たるものが、「平和主義の機関」とその「集団」のものであると印象付けるものであり、他方、そこから一部の動きや党派性を外様のものとして排除する為のものでもあります。

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 そして、「平和主義の機関」とその「集団」が防衛諸関係と近しい立場で設立するべきという話は、象徴的にも、また先からの統制の話にとっても、次の点で重要です。すなわち、既存の平和運動のかなりの運動が憲法9条を守れという立場にあり、その基本的な趣旨は自衛隊の解体を指していると見做せるという点、そしてまた、自衛官などの防衛関係を非国民とみなし、非人間化するような言説がそれなりに存在するということです。そもそもそんなものが平和・反戦の為に寄与しているのかしらん。筆者としては寄与していると思いません。防衛関係者やその家族に対する差別的な扱いがあったという話が一部から聞こえてきます。現在にも続いているとは思いませんが、問題があったわけです。ベトナム戦争の際のアメリカ兵にPTSDが多く発生した原因は様々ですが、その一つとしてしばしば挙げられるのは、当時のアメリカ国民が彼らを英雄ではなく人殺しのクズとして扱った故であるという話です。これは信ぴょう性が高いとは思いませんが、もしそうであるならば、これは徒に戦禍を広めているものと思われます。平和主義の言説は、良くも悪くも国民大多数の意志であると自らを見せかけがちであることも考えれば、平和主義なるものが防衛関係者に対して強く当たることは、防衛関係者の国民あるいは国民の一部を見る視線についても影響することでしょう。それだけが原因とは言いませんが、若い自衛官が報道陣に対して中指を立てた(これは本朝に於いてはさほど強烈な意味ではないジェスチャーであるとは言え)事件は記憶に残っていることと思います。問題であり、少なくとも防衛関係者の自制心のみに任せて満足すべきものではありません。これらは、平和思想・反戦思想に対して反軍思想というべきものの暴走であるわけですが、大陸的文弱かしらんと罵れば良いのでしょうか、ともかく問題と言わざるを得ないものです。

 平和の維持発展に向けては、現実的に可能で有効な政策をとるべきであると思われます。その意味でも、本朝の平和主義は、憲法9条に拘らず自衛隊に守られ自衛隊抜きにしては存在していないのだという所に立つほかないはずで、少なくとも、具体的な防衛の営みそのものを敵と見做し攻撃するべきものではないはずです。「平和主義の機関」が防衛諸関係に近しい立場のものとして作られるならば、また先に述べたような統制が機能するならば、この点について良くも悪くも大きな前進があるものと期待するものです

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 防衛諸関係に近い立場のものとして「平和主義の機関」が成立することが、「集団」以外の点でも重要なことはしばしば触れてきました。まあ、そもそも平和について考えることは、戦争、そして日常とその防衛について考えることに他ならないという意味では変な話ではありません。

 防衛諸関係に近しい立場であることで、平和の為の諸活動を行う上で防衛諸関係の情報を利用し得るし、防衛諸関係の活動についてかなり詳しい視点で評価することが可能となります。まあ、「平和主義の機関」がちゃんとした国家機関として設けられたならばかなりの機密に関与できるのは変わらないので、あくまでそうしやすくなるというくらいに限られるかもしれませんが。また「集団」に自衛隊に近しい性格をある程度求めるならば、人材の点での交流はその前提となりましょう。

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 まとめとなります。ちょっと思索と、提案したいものの前提にあたるところから、提案したいものを提案するまで想像以上に文章を長くし、要領を得ない部分も多くしてしまいました。提案の部分だけ、主たる提案内容を箇条書きにすると、
・平和主義の実践の象徴として機能すること
・平和主義の実践の専門機関として平和主義を有効なものとすること
・多くの人員を抱える枠組みをもつこと
・防衛諸関係に近しい立場、地位のものであること
・一種の統制を担うこと
というのが骨子となりましょう。

 特に統制という点をそもそも考えている以上、ここに注意を述べておきましょう。「平和主義の機関」や「集団」の統制は、時の政権や世論による単なる統制に早変わりしかねない危うさ、また、防衛諸関係の出先機関になりかねない危うさをもっています。そして、既存の平和主義、すなわち先述の「局外中立」のなにもしないことに注目する平和主義を未来に延長したり、あるいは反国家的、反軍思想な平和主義を反映したりしかねない危うさもあります。「平和主義の機関」はそうなってはなりません。それを実現するだけの確立された平和主義が「平和主義の機関」には求められるのです。

 当然、以上の「平和主義の機関」の説明は大部分が私案であります。「平和主義の機関」を国家機関としてつくり専門知のある職員を養成するという所まではともかく、それを防衛諸関係に近しい立場にするという所や「集団」の必要性、一部を優遇するという形での統制などのもう少し細かい部分については議論の余地は大きいと思われます。


令和6年6月30日
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