「利用」に陥ってはならないこと

 本朝ではしばしば君主制擁護論が見られます。日本やイギリス、その他の国では君主制を擁護する議論が少なからず繰り返されていることでしょう。このような君主制を擁護する行為の背景にあるものは、フランス革命以降に定着した反君主制の意味での共和主義や、共産主義者がそれを命じていた反君主制の議論が強い時代があったり、また広い意味での民主主義というものが非常に尊ばれる時代でありながら、民主主義が一見君主制と矛盾しているように見え、その立場からも反君主制の議論が少なくなかったり、はたまた単なる君主不要論が存在したりするという事実であります。

 君主制擁護論は、君主制が様々な点から百害あって一利なしと言われうるようなものではないことを説明し、むしろ有用であること、あるいは、それはこの民主主義の時代、大衆の時代にあって更に有用であることを説明するものがほとんどでした。国民主権が自明の大前提とされ、すなわち、国家の諸機関が総体として重要視される現代では、また正しさよりも有用・無用という経済性こそが重要とされる局面が少なくなく、道徳・法律・国家その他もその経済性によって説明されるのが普通であるようにも思われる現代では、そのような有用性の提示こそが説明であり擁護なのであります。

 しかるに、それは、君主を利用するというような所に終始してしまっているものが少なくないのではあるまいか。

 それは、君主制を敢えて擁護する議論に留まりません。尊皇家の議論でさえ、忠誠や敬愛というものから離れたような議論に落伍してしまっている可能性はあるまいか。筆者には、そのような単なる利用価値にのみ焦点を置く思考に陥り兼ねないことが恐ろしく思われます。

 君主が果たす役割や機能を考えることは、もちろん重要であるよう思われます。国民国家に於いては、その主体たる国民が何者であるかを説明しなくてはなりません。君主国に於いては、君主以外の者という意味での臣民のみならず、君主についてもそれと同じ意味で説明せざるを得ないものです。

 それを有用さという話のみに矮小化しても、君主制を一種の制度として見た時、それがどのように機能し、どのような特長があるのかを知らなければ、国家を適切に経営することは難しくなります。少し矮小化を緩めると、国家を善く経営することが難しくなるということです。

 また、やはり君主は一種の機関であり、国家や国民一般よりも、君主というより具体的な形のある機関の方が議論しやすく、検討しやすく、知見を集中しやすいものであります。君主を取り巻く多くの機関のあり様について議論することもまた、君主制を議論することに含まれますし、それらの機関の機能を考えるためには君主という機関について議論することが欠かせません。

 しかし、君主制の効果をただその有用性に限って論じることは、君主というものを単なる政治の手段に押し込めることに通じるものであります。それは、手段としての主体や主体の一部としての手段でなく、客体としてただ利用される意味での手段であります。

 君主は人間的・人格的であるという意味に於いて、単なる職業ではありません。それがどこまで人間的で、職業に留まらないものであるかは、国により、時代により異なることでしょう。と言っても、主上が今その最大のものであらせられると断言する用意は私にはありません。少なくとも、本朝では単に職業の意味で捉えるわけには、すなわち経済的報酬のみを対価として与えられるような意味に於ける職業と捉えるわけにはきません。確かにその意味でさえ職業と呼びうる側面もあり、重要ですが、それはあくまで一側面であります。

 少なくとも尊皇家は、忠誠や敬愛について、またその政治的道徳的な次元について考えなくてはなりません。君主を無言の政治の手段と考えるのは論外であって、政治の手段と考えるのでもなく、君主を政治の主体として考えなくてはなりません。表現されるものにしか意味のない言葉でいう所の、利用というものもあり得るとは思われますが、君主をただ「利用する」のではなく、御利用奉るものでなくてはならぬはずです。そしてまた、ここまでくると自覚的な臣民のとるべき尊皇のイズムであるか筆者としてもまだ考えが固まりませんが、臣民が政治に参加するとき、換言すれば、臣民の政治を行う時、主上に何を奉ることができ、何を奉って良いのかを論じなくてはならないはずであります。語弊もありますが、君主も当然政治の目的であらざるを得ないものであります。

 その単なる政治の手段としての機関ではないということが、あるいは、どのように単なる機関を超えたものであるのかが、君主制の特徴であり、君主制の権威の源泉としてその魅力を形作るものであります。

 現代の言葉は、特に、誠実に他者を説得しようとする言葉は、無機質な有用性を論じることにすっかり慣れた言葉であります。説得する所の相手は君主制に価値を見出していない以上、説得が有用性についての議論を含まざるを得ませんし、それは妥当であります。忠誠を心掛ける尊皇家でさえその形での議論に腐心するとき、確かに君主制を擁護する上で、また、君主制を自覚しようとする上でも意味があるものですが、同時に、君主制を語る言葉と、その言葉によって語られる君主制を貧相軽薄なものにしてしまいかねないものと思われます。ただ政治の手段として用いられるようなものとして君主制を説明することが、その説明をした者たちにとっても、単に政治の手段として君主を「利用する」という実践に繋がりかねないものです。

 それに陥らないよう心を用いなければなりません。加えて、そこで満足し、そこに留まってもならないと思われます。擁護論として、すなわち説得としても、優れた制度として君主制を論じるに留まらず、より積極的に、より積極的な形で論じなくてはならぬように思われます。

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