経験としての歴史(の反省)

 歴史上の問題への対応が、それを罪や悪徳と批判して、繰り返してはならない、してはならないものと定義づける所で終始するような言説が少なからずあるよう思われます。甲には乙という問題がある、故にしてはならない/してはならなかったという言説であります。特に先の大戦に関して、なんとなく自由を抑圧することに繋がる制度や、簡単にはあの開戦の決断について批判(批判)あるいは非難する際に用いられる印象です。

 その全てとは言いませんが、その一部、歴史を客体化し、他者化し、自己批判・自己否定としてこのような言説が行われている場合があるようです。そのような悪徳をしてはならない、その決断はしてはならない、するわけがない、今やそんなものしようとすら考えるはずがなかろう、と言わんばかりにであります。これが決意の表現形であれば、少しく表面的で、抽象的すぎ、それ故に無力であるような嫌いがあるよう思われるものの、これは歴史を経験としているものであります。しかし、歴史上のその人物が愚かであったという思考、一歩進んで、そこにその「悪徳」へ向かう背景や決断への考察があっても、同じ状況に陥ることはないし、同じ状況に陥っても同じ決断をするはずもない、してはならないという思考があるように思われる意味で、客体化であり、他者化であり、自己批判であるよう思われます。歴史をあり得ない異界に押し込むことであるとも言って良いことでしょう。当時の悪徳の中心にいた人物もただ愚かであったりただ奇妙な概念に支配されていたりしたからその悪徳を決断したわけではありません。我々と同じくらい合理的に、物事を考えた結果として、決断したし、今を生きる我々も近い状況下で恐らく同じことをしてしまうと考えるのが健全でしょう。そしてその近い状況というのは案外やってくるものかもしれません。

 熱心に問題の悪徳とやらを行った当時の具体的状況と因果を把握しようとする科学的姿勢は、またその意味における歴史家の姿勢は、この観念に、あるいは懸念に立ったものと言えるのであります。具体的な把握の言説は、いざその時になにをしてはならないかの具体的警句となります。

 しかしこういう具体的な言説に於いては、警句であるだけでは、歴史を未だ客体化・他者化しあるいは自己批判の手段としていて経験とするには忘れられている部分があって、足りないのではあるまいかと思われます。それはつまり、我々はその悪徳をいつか必要とし、必要悪と呼ぶかもしれぬことです。それどころか、更に酷い悪を想定して、消極的どころか積極的に肯定する、肯定せざるを得ない状況に陥らねばならぬかもしれぬことです。換言すれば、また分かりやすい典型的な例を出してみれば、これだけあの戦争を悔やむ我々日本国民が、他ならぬ「大東亜戦争」をほぼ同じに繰り返すことを諸手を挙げて歓迎せざるを得ないと考えてしまう瞬間があるかもしれぬということです。

 元々歴史を単なる情報の羅列ではなく、国民の経験であると考えるならば、まあ、警句にしておこうとして成功した場合には無力な警句になるやもしれませんが、ここで具体的な歴史研究の警句も経験へと戻ることになると思われます。経験である以上、我々は大いに苦しみつつ、あるいは前回の失敗を繰り返し・その警句を破りつつも、少しでも良い方へ進むよう努めること(私はそれを正義と言いたい)が可能になるはずです。

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