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短絡主義について

 短絡主義と筆者が個人的に呼んでいるものがあります。筆者にはその用意がないので、具体的になにが短絡主義であろうと思われるかはここで示さないこととしますが、何らかの悪因悪果について指摘したり、非難したりする言説があるときに見える一種の様式です。近代的な思考とは類似点を見出す思考であるとベンヤミンが行っていた様な気もしますが、実際誰だったか…… ともかく短絡主義はそれの一例と言えるのでしょうか、様々な問題(問題とされたもの)に、同じある特定の原因を見出す振る舞いです。ありとあらゆる問題に同じ原因を見出すとすら言えるかもしれません。その特定の原因を、ここでは悪因悪果という言葉から単に悪因と呼ぶことにしよう。

 多くの場合、現実の問題から、何も形を成していないような悪因をこれであると導き出すことは難しいものです。既にどこかで示された、少なくともその場では悪いものとされた原因であるような既知の概念に、現実のあれそれの問題をすぐさま短絡的に結びつけること、それが基本的な短絡主義の現れ方なのです。そしてまた、それがいわば短絡主義であると筆者が考えた振る舞いであります。その短絡的に結び付けられる悪因が「悪い」ということについては議論の余地がないことになっている故に結び付けられるのであって、そこには少なからず政治的な、そのような短絡性そのものを批判することを非難する作用も働きます。

 短絡主義に於いては、その悪因として提示された既知の概念が丁寧な考察の下で提示されたのであろうのは違って、実際のそれぞれの問題が具体的にどのような問題であるかとか、どのように出現しているかという点をほとんど無視する格好で、それらがある一つの悪因に由来することに着目するものです。そして、そのような多くの問題の原因となっている故に、その悪因を除かなければならないと強く論じるものです。

 ところで、短絡主義の特徴として、そこに於ける悪因は、解決可能なものとして提示されるということがあります。

 短絡主義において見出される悪果を結びつけるものを本当に考えるのならば、それは様々な問題の同一の背景になる程には国家社会に於いてほとんど普遍的なものでありますから、よしんば実際に本気でその解決を求めるとすれば、国家社会の全的な変化を求めざるを得ないものであります。その意味に於いては、短絡主義はそのような全的な変革、つまるところ、革命なるものを結びついている部分もあるのかしらん。それどころか、場合によっては更に深い変化を求め、パラダイムの大きな変化、人間性そのものの大きな変化を要求するようなものもあります。思いつく限りの問題に共通する背景を考え出してみれば、多くの場合人間性そのものが問題になることはほぼ必然と言えます。そういう短絡主義に近いもので言えば、キリスト教的な「原罪」概念がそれに近いものでありましょうが、しかしそれは実の所、人が除くことの不可能な人間性にまで還元されており、その解決が人間の営みとしては棚上げされていると言って良いものです。確かに、短絡主義的な悪因は、原罪の概念と近い所があって、俗流に原罪という言葉が使われるときは、半ば意識的に短絡主義的な悪因を導き出していることが少なくありません。しかし悪因として提出されるものが真に原罪的なもので、人間性そのものと深く交わっているものであるならば、見出した悪因を解決しあるいは解消することは極めて困難というか、ほとんど不可能であります。

 ところが、悪因として示されるものはそこまで根本的なものではないのです。それは矮小化され、比較的簡単に取り除けそうなものとして提示されたり、あるいは実際に取り除ける具体的な存在、具体的な制度が指定されたりします。実際には取り除くことが困難で、取り除いた場合の弊害があまりにも多い場合でさえ、比較的、取り除くことは困難ではないし、あるいは困難であっても取り除く価値があるし、弊害は些末なものに過ぎないということになるのです。そして解決可能であると提示されるということは、即ち、解決しなくてはならないものとして提示されるということです。そしてそのような悪因が実際その悪果とされるものと結びついていることはあっても、実際に原因であるかには、即ち特にそれが唯一の原因であるか、それを除くことによって結果の方が変わるような原因であるかということについては、疑問の余地があると言えます。この意味で短絡主義的な言説は、その悪因とされているものを除けという命令であります。

 さて、同じ悪因を見出すということの一方で、同じ悪因に基づくということは、ありとあらゆる現実の問題は同じものであるということになります。もちろん実際に悪因に対する悪果であるかどうかは議論の余地があるのですが、同じ悪因から流出したものとして同じ悪果であるとみなされます。既に問題と認識されているものでさえなく、ありとあらゆる現実がその悪因によるもの、即ち悪果であるというようなことさえ言われ得るものです。

 そこで、自分の気に食わないものにはなんでも、それを悪果であると指摘することが出来るということになるし、またそれで十分批判として事足りることになります。もちろん実際には批判として不十分な場合も少なくないのですが、悪因が悪因だけにそれで十分と見なしてしまう、それ故に「短絡」主義なのであります。その悪因を指す言葉が既に悪いものとしてそれなりに広く流通していれば猶更であります。そういう時には負の「言葉のお守り的用法」とでも言うのかしらん。

 総じて、短絡主義とは、ありとあらゆる問題(悪果)に同じ悪因を見出すこと、そして、その同じ悪因からありとあらゆる問題を見出すこと、この二段階からなる思考の動きであり、そこにそれらをとにかく取り除くよう動くべしというものです。

 短絡主義的に見いだされる悪因とは、何にでも見出せ得るし、何の原因にでもなりえなくてはならないようなものですから、この意味で、短絡主義はそれが可能なだけ抽象的で曖昧な、あるいは悪徳の背景として魅力的な「悪因」が、あるいは悪因とされたものをそのような抽象性へ押し込めたり「解決」が可能なものに矮小化したりするものが、その本体であるとも言えましょう。

 悪因として提出されたものには、どこにでも見いだせ、なにであれ悪果と言いうる抽象性と曖昧さがあることに加えて、悪因悪果を見出す言説が、実際には、丁寧とは言い難い論理展開によって、つまり短絡的にとられるものである以上、実際にその言説をと短絡主義が導く言説は、意識的であれ、無意識のものであれ、恣意的なものと言えるものです。

 短絡主義の言説が恣意的なものである故に、その命令も恣意的です。そしてそれは、何を悪因と捉えるか、何を悪果と捉えるかは、即ち何を解決するべきかであり、何を敵と見做すべきかということであって、その点で政治的なものであります。つまり私に従えという主張に過ぎないものであると言ってしまえばそれで良いのかもしれませんし、確かにその点について短絡主義が行われるときには欺瞞があろうとは思われますが、政治的であることとそれを隠すことという相当に普遍的なものをそこに見出して、それだけで何か意味のあることを言った気になっても、それこそ短絡主義的な悪因を見出していることに他なりません。むしろ、というか、やはり、短絡主義の問題は、その短絡さ、何にでもある特定の同じ悪因を見出し、何であれある特定の同じ悪因によるものであると考えるという点にこそあるように思われます。

 短絡主義は魅力的なレトリックです。それを用いてしまっている時、世界が分かった気になりますし、既に提示された悪因とされたものを敵とする仲間意識、翻って差別意識も働きます。しかし、特に前者の世界が分かった気になるという所は、文字通り短絡的である故に過ぎません。現実に、あるいは政治的な力を持つことは出来ても、現実に問題を解決することに直接繋がると期待できるものではありません。近代的大衆の時代すらもう終わりを迎えつつある現在では猶更でしょう。これに気を付けていきたいものです。

 もちろん短絡主義と筆者がここで言っているそれも短絡主義の例外ではありません。あれもこれもそれも問題の原因は短絡主義であって、それもこれもあれもその短絡主義によっているものだ、短絡主義なぞ短絡的であるにすぎないのだから除かれなくてはならないのだ等と筆者が言い出したら短絡主義者と詰って頂きたい。

 なお、短絡主義は他方で、二元論の形をとることもあろうと思われます。一方に悪因悪果があるならば、それに対する善もあっても不思議ではないからです。まあ、あるものが二元論のどちら側に属するのかということは二元論の形をとっても曖昧なままです。


令和6年7月29日。

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