非武装中立(あるいは憲法9条)の魅力の変化

 憲法9条、あるいはいわゆる非武装中立の思想が極めて魅力的であったのは、特に核兵器が意識される冷戦下という状況に合致したからであったように思われます。

 核戦争と核兵器による滅亡という予想は分かりやすい恐怖であります。広島及び長崎のマンハッタン計画以降、ソ連の核兵器開発、米アイゼンハワー政権期大量報復戦略、ド・ゴールの核実験等、核拡散を制止できない雰囲気の中で核兵器の軍拡競争があり、アメリカのジョンソン政権期に相互確証破壊が打ち出されるに至ったことを考えずとも、核戦争は極めて現実的にあり得そうなものであったのです。しかもその核戦争やそれによる人類の滅亡は、何か特定の兆候を示すようなものではなく、また、反省や熟慮、制止の暇もなく、ある日やにわに起きてしまっているもの、起きてしまえば止められ得ず行くところまで行ってしまっているものとして捉えられました。

 この害を避ける方法として、核兵器の運搬手段を破壊する防空は現実的でなく、核軍縮はなかなか進まないものです。特に後者は理想として掲げやすいものでありながら、いつ核戦争が始まってしまっているかも分からない状況で、なかなか進まないということの問題は小さくありませんし、進んだとしても核兵器で世界が滅亡するような状況が変わるのは更に遠いものです。何より主要核保有国と潜在的な核保有国に話をつけなくてはなりません。

 そこで、比較的手早く進めることが可能で、かつ一国だけで行っても意味があるものとして、憲法9条の掲げる非武装の精神と、中立の精神は酷く魅力的であります。核兵器によって世界の殆どが滅亡するとしても、核兵器も軍隊もないような国としての本朝に対してならばわざわざ核兵器を撃つ国はまず無いもので、あったとしても撃ちこまれる核兵器の数は限られると考えられるものです。

 そのためには、自衛隊含むあらゆる攻撃的なものとして受け取られかねない軍事力を廃止し、核兵器を開発していると思わせないことはもちろん、あらゆる核保有国が核兵器で狙っていると考えても不自然ではないアメリカの軍事基地があれば、いかに日本それ自体が平和主義の非武装中立の国であっても狙われるので、これを撤退させるのが道理であります。防衛力が脆弱なために国土の一部が奪われたり国際政治的に圧力を受けたりしようとも、確かに、核兵器による野蛮な世界の滅亡に巻き込まれないことに比べたら些末な問題と言えましょう。このような考え方は、核戦争の恐怖さえ共有しているならば政治的立場をある程度横断して、かなり広い範囲に対して説得的であったものと思われ、その意味で、憲法9条の精神は、というか、正確には非武装中立の理想が、冷戦の状況に極めて合致しているように見えるものであったものと思われます。

 しかるに、平成に入るころにはソ連が崩壊し、全世界を舞台としたイデオロギー戦争という意味での核競争は終焉を迎え、また長年の反核兵器の風潮が核兵器の使用のハードルを極めて高め、しばしば行われてきた限定戦争によって、小さな紛争は大国の参加があってさえ核戦争に発展しないものとして定着したのです。米ソの相互確証破壊体制と核拡散を防止する体制が完成し、核の管理が可能になっていたこともあります。良くも悪くも、人類は人類を容易に滅ぼすだけの核兵器が存在する状況に慣れました。どのような形で戦争が始まろうと、実際に核戦争が起きるまでには多くの段階があり、またその段階があることによって国々は政治的に様々な交渉と譲歩があるようになり、そうであることが理解されたのであります。核戦争は日常の中でいきなり起きてしまいうるものではなくなったのです。

 またそれは、核戦争の可能性が、より限定的な戦争が激化することを避けることを要請する、諸紛争の背景になったことも意味するように思われます。実際に核保有国が侵略などを行い始めたとしても、それが限定戦争である限りに於いて、通常兵力で防衛し、制止することが可能です。限定戦争をきちんと行う限りに於いて、如何なる核保有国であったとしても容易に核を行使できないと換言してもよいよう思われます。その意味で、核戦争の危機と限定的な紛争とは一つの戦争の体系を形作っているとも言えましょう。侵略国にとっても、限定戦争に留まる限り国の存続のために核兵器のような兵器が持ち出されることがないことを意味します。通常兵力が無いことは、核兵器で狙われないことをもはや意味せず、単に防衛能力がないということを意味するのです。筆者としては、それどころではなく、限定戦争に対してきちんと限定戦争で応えるということが、相互確証破壊の核抑止にまで至る意味で、対応を行う覚悟とその世界観を担保し、抑止を確実にする行為であるようにも思われます。

 少なくとも通常兵力による武装について、それを放棄することの、特に広く訴え得る説得力を持つような利点は失われたのです。核兵器が核保有国を狙っていることは常識でも、限定戦争がかなり激化してしまって核使用の必要がありそうな時になってから核兵器をそちらへ向ければよいのですから、核兵器が核保有国でない国を狙っているという観念は広く共有されにくい話でしょう。偶発的な核戦争の可能性を忘れるのならば、国際社会の反発を無視すれば核武装すら、自国を害する可能性よりも自国を守るためにきちんと反撃するためのものとして、また、他国の核の傘に入っている状況という自国の不信感を除き、その状況に対する甘い考えを侵略国に許さないものとして、現実的な選択肢となってくるものと言えましょう。それによって、比較的平和な交渉の余地が増加するからであります。

 筆者としては、偶発的核戦争の危機が無くなったとは思えません。しかし、ミサイルなどを追跡する技術や情報技術の進歩もあって、偶発的核戦争が起きたとしても、それが世界の滅亡のような最悪の結果や、そこで日本が直接攻撃の対象となるという結果に結びつくという仮定も、絶対的な説得力があるようには思われません。偶発的に核戦争が起きてしまったとしても、あるいは起きてしまったからこそ戦後復興に於ける救援などを期待して、その核戦争を始めてしまった二カ国間等に限定しようとする動きはあり得るものです。偶発的核戦争が起きると信ずるにしても、核の傘から全く離脱しなければ偶発的核戦争の被害を強く受けると信ずることは難しく思われます。

 しかし、というか、それ故に、確かにアメリカは良くも悪くも世界の警察の立場に近く、核攻撃をいかにも受けそうな国であって、国内から米軍基地を排除すること、少なくとも減少させたり、人口密集地から遠ざけたりすることは、本朝に対する核攻撃の被害を減らすことに繋がるという理解は共感を呼びうると思われます。他方で、米軍基地が日本にあることは、米国の核の傘が期待通りの働きをすることをある程度担保するものと受け取っても良いと思われ、自国の核兵器であれ他国の核の傘であれそれらに頼ることは、限定戦争を限定戦争に留め、全面戦争や限定的な核戦争に発展させない為に重要であると言え、その為だけに米軍基地があることが重要とは言えましょう。しかしそれでも、米軍基地のその意味での危険性については、現代でもなお説得的になりうるものと思われます。本朝自身が核武装したり、軍事的に多くの地域で利害を持ったりしてしまうことの危険性についても然りです。

以上書き散らし。

令和6年8月9日

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