経験としての歴史(2)、異界化する歴史と敬語
歴史の客体化・他者化という私の言い回しには、歴史を今生きる現実からかけ離れた異界の如く扱うことを想定している部分もあります。歴史で語られているようなことは異界の出来事であり、現実の現在との因果関係は皆無であるか、あっても理解する必要がないというような立場は、根強いよう思われるのです。歴史を参考にするというのも、まだ第一に無関係なものと考えているというものとは思いますが、参考にするだけまだ客体化・他者化の程度は酷くないのです。
そうはいっても現代に近しい時代の歴史は現代人に強く働きかけます。より時代を遡る程、当時の行為の現代への影響は偶然にしろ必然にしろ大きくかつ致命的になり、今の我々にしてみれば、そうあって貰わなくてはならないことは多くなるにも拘わらず、昔であればあるほど歴史的に分かっていることが少ないということもあるのか、より近い時代であれば具体的に現代への影響が想像しやすいのか、昔のことよりも、比較的現代の具体的なそこここへの影響は大きくとも比較的影響の範囲は限られるような後の/近い時代のことの方が、現代と深く結びつき、現代を致命的に定義しているように思われるという逆接があるにしろ、他ならぬ現代という時代を具体的に築き現代を現代たらしめている具体的な功労者が現代史の扱う範囲に集中しているのは事実であります。そしてそういう時代の語りには、現代でも日常的に聞く具体的なあれそれの名称が表れ、現代との繋がりは極めて明白です。こういう意味では、異界のように思われることのある歴史なるものの範囲は、近世以前に限られる場合が多いのでしょう。それはすでに時間的に遠く当然に異界であるよう思われる故に異界であるよう思われるのであって、それ自体は構わないという考えであり、一理はあります。しかし、他の国ならばいざ知らず、本朝に於いては、上古から中世を経て近世に至るまでの歴史、むろんその後も、我々という共同体の歴史であって、歴史である以上我々なのであります。歴史を客体化・他者化し、異界の如くみるということは、それが自らと無関係とみなすということであります。これは歴史が歴史であるということを否定しているとも言ってよい姿勢です。
歴史を客観視しようとする近代的な歴史学には、自然科学の発展著しい時代、自然科学をある種追いかけるように発展した側面があります。この近代という時代、自然科学によって解き明かされていったような自然の一つの類型は、ただ客体として、フラスコの中にあるようなものであり、良くも悪くも、現代を、国民を定位する人文学たるべき歴史学もまた、そのようなものとして歴史を扱う側面があったよう思われます。そしてそうして歴史と自らを切り離すことが、歴史に対して「中立」の立場から叙述してみせることとして表れているよう思われます。
歴史は、現代を、現実を定義し、定位するものに他ならないのであって、少なくとも歴史の営為にはそれとしての歴史を行うことが求められる以上、歴史に携わる学問は、語り手・聞き手を定位するところまで踏み込まざるを得ない部分があります。そして、実際、多くの纏まった歴史書では、そこまでちゃんと踏み込んでいるものです。しかしそれはあくまで話の締めであって、歴史書は哲学書でも政治宣伝や教化が主の書物でもない以上、ある種のオマケになってしまっている部分があるよう思われます。そしてそういう大著を含めて、そういう大著以外にも歴史についての語りは極めて多く、そしてその多くの場合、歴史は、「中立」な、その歴史で語られるものと無関係を装った言葉によって提供されているのです。歴史は我々を定位しないものであるかのようになってきているのであります。
個人的には、この歴史を異界とみる風潮は特に現代の、また世界的な特徴でもあるよう思われます。ホブズボームの言う黄金時代より後の時代、あるいは進歩が当然の感性に練り込まれ、また過去を参考にすらしなくていい分野が多い世代、その分野なるものについても学問や制度の発展・整備によって細かく分化し知識があくまで歴史を感じさせない物ばかりとなった後の世代、個人を評価する途が経済力あるいは経済的能力だけにやせ細った後の世代、いや、核家族化が進行した後の世代という方が良いかしらん。まあ、このような世代論を云々しても余り意味が無いように思われますが、歴史が敬語や尊称の出番を排除したことは大きいよう思われます。
行幸・御幸や御所、本紀、縁起の悪い謂いでは崩御や薨去等の敬語は、歴史用語としても用いられる現代語でありますが、このような用語を除けば歴代天皇ですら歴史書で敬称を用いられる事はめっきり少なくなり、ただ人までおりてみれば敬称すら用いられる人はまず無いよう思われます。例えば三英傑であれば、信長公も秀吉公も家康公も単に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と歴史では呼ばれることが多く、その死についてもその地位に相応しい言い方をされることは少ないように思われます。三英傑について言えば、これはあくまで武将と捉えるためかもしれませんが。而して、秀吉公や家康公は、流石にそれぞれ関西、関東では敬いの言葉で語られることが多く思われますし、私は詳しくありませんが中部地方では三英傑皆に敬称敬語が用いられているのでしょう。その他地元と関係深い人物については敬意が払われることは少なくないようであります。歴史と言っても、歴史についての語りすべてという訳ではなく、あくまで特に歴史学/学問としての歴史に於いて敬意が現れなくなったのです。歴史学が歴史学として力を持つ、一定以上の規模のある歴史、すなわち国史あるいは地域研究などの広域の歴史、世界史に於いては、歴史の語りは「中立」で、敬語が用いられることがまずないものと思われます。
敬語の使用については、マルクス史学、というよりはマルクス主義的な仕草が歴史学に於いて(も)支配的な時代があったこと、いわゆる皇国史観が「反省」の対象たるべき第一ものであった時代があったことと、無関係なものではあるまいと思われます。大人物の歴史が比較的無意味なものと定義されていったこととも関係しましょう。何より敬語を用いる基準を突き詰めようとすれば極めて難解で、叙述すること自体も難しくなります。而して、敬語は、話している対象を、ひいては、話者を定めるものであります。ここで話者を定めるということは、全く直接であるかはともかく、歴史叙述の聞き手をともに定義するものであって、つまりは現代を定位するものであります。上述したような状況下、「中立」を名目に、歴史はもはや限定される「我々」の歴史を語るものではなくなっていった側面があるのではあるまいか。語り手も聞き手も、何者であるかを定義しないものになったのではあるまいか。これを換言すれば、歴史を、我々/現代を定位するものでなくしてしまったのではないかということです。
その意味で国史がしっかりと機能したかは別にしても、国史は国民を国民たらしめる歴史、ある日本史家の言い回しを借りれば、国民教化のための歴史であったはずであり、それは国民を定位するものであったのです。歴史とは現代的なもので我々を定位するものに他ならず、歴史叙述とは自己の説明に他ならぬ以上、我々の歴史学は自らを定位する歴史のもの、その国史の学、国学の(学問の)一翼でなくてはなりません。これは、真理を求める意味での科学的な中立性を放棄するべきの論ではありません。その意味での中立性と、歴史叙述を無関係なものとして突き放す意味での中立性は異なるもので、前者を求めて後者の中立性に立ったとすれば、それは端的に誤りであるよう思われます。また、「中立」と無関係こそが現代の歴史における現代なるものの定位であるというだけに過ぎぬとも、故にそれを放置した方が良いとも思われません。歴史の営為は歴史の営為である故に、歴史上の大人物の社会的地位に相応しく、敬語を備えるべきと思われます。
はたまた、近い話として、同じ共同体である故に敬語や敬称を用いるべきという話があり、それこそ先にあるべきとも思われます。確かに歴史上の人物への敬語を、即ち言葉のあり様を問題とする点で同じなのですが、歴史の話ではないためまたいずれとします。
而して、歴史に敬語を備えるとしても、歴史上の人物についてどのような敬語を用いるのが適切なのか、という問題があります。私自身、古い天皇にも陛下とつけたい欲求に悩まされもし、敬語を用いないと割り切ってしまえばこの悩みから解放されることもあり、私自身用いなかったことはしばしばです。特に致命的な部分さえしっかりと敬語を用いれば十分であるにしても、取り敢えずの指標を考えてみます。恐らくこのことについては詳しく考察した先人がいて然るべきなのですが、無学につき、平泉澄の文章を見てみる限り、例えば聖武天皇のことを聖武天皇とお呼びしています。天皇は天皇とお呼び申し上げるのが良いのでしょう。もちろん敬語、最高敬語を用いるのが良いと思われます。その他、基本的に、官位官職に沿った敬語・用語を用いれば良いと思われます。
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