平和主義についての小考と提案(中編)
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何もしない、何も出来ないことによる平和主義を消極的な平和主義とするならば、平和の為に行動する平和主義、もちろん単に戦争の口実になることのない平和主義は、積極的な平和主義であります。消極的な平和主義をやめ、積極的な平和主義を模索しなくてはならない、というのが前回の話の大枠であります。これ自体はもう何度も繰り返された議論でしょう。重要なのはこの積極的な平和主義を国家国民の平和主義の基調とし、その象徴を打ち立てることと思われます。
私としては、公の平和主義の機関とでも言うべきものを設立して、一方では政策決定過程にあってまたその政策を実行し、他方では平和主義的な動きを総合する核となるようなものとするのが良いよう考えます。これを平和主義の機関と呼ぶとしましょう。
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とりあえず、平和主義の中身はともかくとして、このような公機関を設置する意義を考えてみましょう。
近年まで語られてきたような平和主義は、よく、国民一人一人の自覚、というか、注意を払い続けることを要求することが少なくなかったよう感じます。一人一人が平和への意志を持ち、戦争を反省することが大切であると繰り返されてきたのです。この発言に何等かの政治的意図がある場合があったのではと問うことはやめておいても、このような観点からすれば、平和についての専門組織を設置することは、よもやすると矛盾しているように感じられるかもしれません。しかし、そもそも一人一人がうんぬんという謂いは、これを単に広く一般に平和と戦争について考えておくことを要求することと考えれば、それがそれの専門的集団、公機関の設置と矛盾するはずもありません。
またこの「一人一人が」の立場に、あくまで国民一人一人に平和主義への献身を求める部分があると考えれば、それはあらゆる次元に無限の責任を要求するものでもあり、ひいては無責任にも通じるものと思われます。そのような、いわば一億総自発的平和主義というのを求めるようなことも国家国民の平和主義のどこかでありうべき平和主義の形態であり、それが必要な瞬間もありえましょう。しかし、国民国家の平和主義に常に必要な条件ではありますまい。べつに「一人一人が」に固執するのでなければ、あるいはそもそも「一人一人が」と矛盾するはずもない話ですが、職業として、職分として、専門的に平和主義に努める存在が存在することが、他方で、あまり平和主義に興味がなく、積極的に貢献しようとしない人も消極的にこれを承認することであり、この構造が国家国民の平和主義を担保するものと私は考えます。
翻ってこのことは、国家国民の中で平和主義を主に担う責任ある集団が公の機関でなくても良いということも意味しています。特定の平和団体や、先の一人一人の平和主義が必要であるという命題の下に生まれた多くの平和主義的志向を有する、また別段特定の塊であるわけでもない集団でも良いとはいえましょう。しかし、まず一般的に考えてみて、市民社会的、大衆的な平和主義の伝統というところまで行けばともかく、私人の団体に過ぎないものが国家国民の平和主義を担う核となることは極めて困難であります。悲しきかな、そのような恵まれた私人の団体は本朝に未だありません。それに、凝集性のない集団に責任ある行動を積極的に求めることは論外です。ある特定の集団や構造が国家国民の平和主義を担うとするならば、そしてそれを新たに作り上げるとするならば、国のあるいは国ではないにしても国レベルの公機関が国家国民の平和主義を担うものとなることが、果すべき責任を負うことが出来るのはもちろん、自然であり、広く承認されやすい点でも妥当でしょう。
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国家機関あるいはそれに準じるものであるのが良いのは良いとして、では、ここでそういう専門の機関を専門のものとして設ける意味があろうかという問題があります。平和主義の機関というならば、それは平和の維持発展を行うものでありますが、さてこれは治安維持や外交というに担当官庁とでも言うべきものを作ることに意味があるものでしょうか。
正直、通常の意味では無いよう思われます。そもそも軍事によって反戦・平和を担う自衛隊・防衛省があります。また実際に戦争さえなければ、平和とは日常であり、この意味で、各省庁その他の軍事に直接かかわることもない、いわば日常の物事についての機関がその本分を尽くせば、それで十分平和のためになると思われます(なお、いままで、平和と反戦という二つのものを特に区別することなく語ってきましたが、この意味ではこの二つを区別する意味も小さいからです)。この意味で、あえて平和のための機関を作る必要は無い。
しかし、ここではそのような業務の分担の点からではなく、平和の機関が存在するとしてどのような特異な役割を果たすことが出来るかという点から考えてみたいと思います。
(続)
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