「対話」から感じ取られる党派性

 対話というものは極めて重要であります。特に現代では、と書こうと思いましたが、いつの時代でも重要であることに変わりありません。立場の異なる人々が、共存するべき味方であり、同じ基盤に立つ者であることを前提としつつ、その異なる立場から衝突したり妥協したりする意味での対話は、平和的で誠実な共同の基本と言えます。ただ、特に現代では、社会の分断や、いわゆる陰謀論のような独善的な世界観ということが問題視され、そこから対話が重要であると強調されることがあるようです。

 しかるに、対話というキーワードは党派性を帯びてしまっているのではないのかと思われます。人権や反戦という言葉が普遍的な価値を有し得るものであるのにも拘らず、というか、むしろ普遍的な価値を有すると定義する故ではありますが、特にそれが殊更に主張されるときには党派性を有し、例えばいわゆる左翼的なものと理解される場合があるように、そしてその逆の例もまた然りであるように、対話という言葉もまた、一種の党派性を帯びているか、そう認識されているのではあるまいか。

 例えば対話をしなくてはならないという謂いを発するということが、あるいは弱者が強者に対して、暴力を用いないでくれと懇願しているのだというメッセージ伝え、ひいては、相手を抑圧者であると定義するような側面があると言えるかもしれません。また、何らかの形で権力を有する権力者が、弱者に対して対話を求める時、対話は一種の宣伝・啓蒙や、価値観の押し付けになる場合もありましょう。

 しかし、もっと端的に、対話をするという言葉は、説得される気が無い場合には、相手を自らの言い分に従わせるという意味と言えます。説得される気がなさそうな人物が言う所の「対話をしよう」とは、譲歩せよという命令であり、あるいは先に言ったような啓蒙してやるという意志表示でしかないのです。自らの言説が正しいものであると信じていたり、あるいは、自らの言説が理論的に正しいものであるという観念に立脚して思考していたりすると思われる人物が、そしてその正しいと考えているのであろう信念故に「対話」を要求するのであれば、要求している所の「対話」はその意味の「対話」となってしまうことだろう。その意味で党派性を帯びてしまうものであります。

 それはそうと、やはり対話というものは重要です。対話を、ここでは政治的に異なると意識される者の間に於ける対話を、対話であると意識させようとするとき、そこに党派性が、あるいは単に、対話をしようという政治が発生するとすれば、対話が意識されずとも自然に行われる環境づくりが重要ということになると考えられます。

 その環境づくりにはまた、対話が行われ得る環境を作ること、共通の基盤が存在することを確認し合える環境を作ることを含まざるを得ません。それは単に緩和力が社会一般に強く作用するよう環境を整える意味に留まりません。つまり、儀式など、その共通の基盤が強調されるような具体的な場が、あるいは自然に対話をしてしまうような場になりうるようと思われます。

 対話をせざるを得ないものの、対話そのものが直接の目的として提示されているわけではない場というのも有用かもしれません。蓋し、宴会などもその役割を担いうるものでしょう。

 さて筆者としてももう少し建設的というか、具体的に建設的な所まで書きたかったものですが、なにぶん思いつきませんので、さしあたってはここで筆を置きたいと思います。

令和6年8月15日。


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