えもいわれぬ孤独感について

何を言っても正しく受け取ってもらえるという安堵のない関係性は、
まるでヘリウムガスだ。
ゴムで形作ったところで風が吹けば靡いてしまうし、なにしろ浮いたままである。

人が関係性を良好に保てる割合や人数は、科学的に定まっている。
しかし、それを下回る場合は人は不安を感じるものなのだろうか。

会社という一つの社会に属すと、その安堵のない関係性つまり緊張のある関係性ばかりを
次から次へと増やしていくことになる。
それにおのずから抵抗を示すのは、そのような関係性がいつ何時自分を傷つけるのかわからないという事態を危惧してのことだろうか。
風船が多くなって浮かんだ先に待つのは、空気のない宇宙である。

果たして、このような地に足のつかない人間関係を結び続けることに
不安を感じないように私はなりたいのだろうか。
答えはわかっている。
心の中で明らかになっているからこそ私はこうして文字を打ち、さらにいえば
文字を打つ前には頭を悩ませたのである。

狭い世界でしっかりと肥えた土壌に根をはることで、ようやく私は安堵しながら仕事ができるのだと思う。
心がいつもどこかに定まることなく、ふわふわと行ったり来たりするということを
私は不安と感じ、その不安を体は「孤独」と認識しているのだろう、と思う。

狭すぎる人間関係は、どこかが毒された時にすぐに自分も毒されるというデメリットがあるが、広すぎる人間関係は自分の影響力があまりにもなさすぎて自分が無価値であるといわれているような気すらする。
むしろ悪影響を及ぼしているのではないかと考えれば、全ての人に面目が立たない、どうせ私なんてと心がへそを曲げていくのがわかる。

人に存在価値を感じさせるのは難しい。でも私の存在価値を奪っているのは誰だろうかと考えると、まず一人目に私が自分の存在価値を相対的なものとして認識しているという事実がある。
私は人より生産性があることあるいはユニークでいることで、私がそこにいる価値があると認識しているのだ。
反対に、自分が周囲と比べて一般的なことをしているということは大いにモチベーションや士気や、存在価値というものを削ぎ取っていく。
自分が生産性が高い部分はきっと他にあるだろうし、それは全く他人の生産性をみくびっているわけではなく、他人と自分の得意なことがただ異なっているということを言いたいがためでしかない。
その自分が他者より生産性が低いことをなぜ自分が引き受けるのかということに、納得ができないなかで長期間過ごすのは、魚が砂漠で泳ぐほどに難しく、また死へも早く近づく。
ここでいう死とは、消滅や絶命ということではなく、燃焼に近い。つまり燃費が悪く、燃え尽きやすいということである。

さて、今の自分について少し理解ができたところで、私が自分に対して価値を感じられることは何かという話に移っていきたい。つい先ほど言ったことがまさに当てはまるが私はこのようなネガティブな感情を抱え続けるということが、生産性がないと思うし、そもそも得意ではないということである。
ネガティブな気分を味わい尽くしてしまって、次にポジティブな気持ちで改善策や新しい逃げ道を考えることが私の得意なことにあたる。これは聞こえが良いが、翻すなら忍耐力がないということである。

そもそも私は私のことを世間一般の人々くらいには愛している。
自惚れているところも多少なりともあるだろう。
世間一般の人よりできることがある、積み重ねてきた努力が、誇りが部分的にはある。
しかし、世間一般の人より劣っている部分も同じように多い。
それの平均を取れば正しく私こそ世間一般の典型なので、私はやはり自己愛については世間一般レベルと言えると思う。

書くのに飽きたので一度書くのをやめる。

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