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舞台『球体の球体』感想
舞台『球体の球体』を3回通して観劇した上で、頭の中で整理したことの備忘録です。まさかnoteを使うことになると思わなかった……
ほとんど登場人物についてのいち個人の解釈整理なので全て私見、想像での話も入っています。だらだらと書き連ねているので長いです。
また、私が観劇したのは17日〜19日ソワレなので、その後の演出変更については基本的に加味していません。
興味を持ってくださる方は、こんなふうに受け止めた人もいるんだな、くらいのノリで読んでくださいね。
私はこの話を、遺伝子を残す・残さない、が主軸の話というよりは、自分の求める他者に望まれたかった(求められたい)、という話だと思っています。
本島が作品を作るのは、少なくとも大統領になるまでは、自己救済という意味合いが大きいのかなと。
展示作品としての『Sphere of Sphere』より以前の『朝食』という作品について、なぜこれを作ったのかって改めて考えて。まず彼の出生(托卵)を知った育ての父親からこだわりを共有されなくなった、というのがあって、その朝食の食パンが、無関心の象徴。離れて暮らすその距離がたったの93メートル、って言ったとき、この距離の受け止め方は人それぞれだと思いますが、私はえぐいなと思いました。恨める距離だもの。シャボン玉やダンスの影響を受けるくらい、慕っていた相手が近くにいるのに、(育ての父側の内心がどうあれ)無関心を突きつけられ続けるってきつい。そして気づけばいなくなっていた、作品にするしかないと思った。そうすることで、ぶつける場のない感情を昇華しようとしたんだなと。自分と同じように誰かに望まれなかった遺伝子がはいったコンドーム、それを食パンのバッグ・クロージャーで留めて並べた、その作品に反射的に感じるグロテスクさって、本島の痛みの深さそのものなんだろうなと思います。
その後の『Sphere of Sphere』について。出生のことがあって、本島自身は自分の遺伝子を残したくない=子を望みたくない。でも本島の本心というか心の底で欲していることは「父親(あえてそう言います)に望まれたかった」だと思うので、子を望まないという選択は、ある意味その行為において本心と矛盾するんですよね。その葛藤があるところに「決めずでいいじゃないか、世界は決まっていないんだから」という詩人の言葉の影響があり、「残すとか残さないとか、全部混ざっちゃえって思って(うろ覚え)」となったのかと。遺伝子を残す残さないの選択への葛藤を手放して、ガチャガチャっていう結果に偶発性があるものに委ねる。それでいてガチャガチャって、「回す」というアクションがないと結果を望めないもの。「元の本人に先を望まれなかった(望むことを決められなかった)」遺伝子でも、誰かに望まれて生まれる可能性があるべきだ。っていう理想を表現した作品なのかなと思いました。またこの、筐体の中にある遺伝子たちも、=本島自身ともとれるな、と……いやもうここまで考えて本島の考える自己の存在価値が低すぎてつらってなるんですけど。
このまま本島がただアーティストとしてあったなら、その後も作品を作ったり踊ったりするなかでいろんな折り合いをつけたり、新しく答えを出しながら生きていったんだろうなと思うんですけど。
物語ではその後、本島は央楼国とグレイニの事情に巻き込まれて、央楼国大統領を引き受けるんですよね。引き受けたのはまあ、そうしないと殺される状況もあるけれど、一番大きいのは本来、作品で終わるはずだった『Sphere of Sphere』の理想を、独裁国家の大統領という立場を利用し自身の人生まるっと捧げて具現化しようと、そうすることで自分だけでなく、他の望まれなかった存在を救うことを覚悟完了しちゃったからかなとか解釈してました。場面転換中の相島さん演じる本島の台詞の中に「苦しみを苦しみとして捉えない方法を探していた」というような言葉があったと思うんですが(うろ覚え)、観劇2回目で気づいて、ああここで理由言ってるじゃん、と。ただ他に、観劇3回目で本島のグレイニとのやりとりの様子を見ていてなんとなく、単純に血の繋がっている相手に求められたからっていうのもあるのかなと思いました。本島、根の部分で情が深そうだし……。相島さんの、ホログラムを見守る表情とかね、いっそ慈愛を感じるよね。
そう考えると本島の冒頭のダンス、最初はどこか儀式めいているなと思っていたんですが、3回目観たときにふと「生み出そうとしてるのかな」と思って。実際の母体は別だとはいえ、理想を具現化した『Sphere of Sphere』も「生み出すもの」と定義できそうだし……。ポールで遊んでいるところは本来の本島の持つ無邪気さのようで、その無邪気さとバイバイして、また囲いを外す=ただの展示作品以上のものに変える、ということかなと。つまり冒頭は、グレイニから大統領を引き継いだ直後の時間軸、本島としてのラストダンスだったのかもしれない。
そう母体、というか、他の方の感想でもお見かけした、この物語において女性(母体)がいないという話。私は単純に、産む産まない以前に遺伝子を残すことを望む望まないの意思の話であり、あくまで本島という男の人生の話だからかなと思ってます。それはそれとして、登場人物3人に共通するものとして、父親との問題と、母親(母性)不在の問題を抱えてるんだなとは思いました。岡上さんに関しては完全に想像通り越して妄想の域に入ってしまうんですが……。父の役割は「秩序」を与えるもの、母の役割は「存在の肯定、安心を与えるもの」とここでは考えます(概念の話ですよ、念のため)。
本島にとって母親は、育ての父との関わりが断たれる原因とも言え、さらには思うような説明をされなかった時点で、母という役割を求めなくなったのかもしれないなと。母親のことを「そういう存在はちゃんと元気にいるよ」ぐらいの温度で話してて、とても冷めているように感じました。
岡上に関しては、一見母親とは良好なように思えて、でも、「自分がいなくなったら母親はどうなるのか(母親が心配だ)」とは言ってても、「自分がいなくなったら母親が心配する」という言い方はしていなかったと思うんですよね……。じつは操作されていた、という話の流れの中での「安心したい、眠りたい」というセリフとか、「帰らないとわかっているものを期待して待ち続けることに疲れた(うろ覚え)」というセリフとか(どの話の流れの中かが思い出せない……)、徹夜をよくするとか……ひょっとするとずっと前から、あなた不眠症だったりしませんか?と。帰ってこないというのが父親で、実は母親を支えてケアする立場だったのでは?と……いや考えすぎでしょ、と言われればそうなんですけれど。もしもそうだとすると、央楼国に巻き込まれて母親との関係が切れ、自身や弟のことにより向き合えるとよかったのに、こんどは母でなく女性関係に依存するようになっちゃったのかな……とか……うんちょっとこの辺でやめとこうかな。前原さんの演技のコミカルさがとっても救いですね。
グレイニは母親の存在は仄めかされてすらいない……。彼に関しては、父親からの圧力に応じて大統領として振る舞う自我と、日本が好きでゲームを楽しむ只人としての自我があって、「パワー」によって大統領としての自我に切り替えていた。けれど「パワー」が壊れることで、切り替えができず、大統領として振る舞おうとする自我と只人の自我が混ざって混乱した結果があの、どちらかわからない・決められないトンチキさとして現れたのかなあと思っています。本島に大統領を渡した後はちょっと落ち着きましたしね。フォートナイトって対戦ゲームなんですよね?(知らずに検索した)現実で大統領として人を殺している人が対戦ゲームにハマるの、現実もゲームのなかのように思って逃避したかったのかしら……とか考えてちょっと切なくなってました。3人の中である意味いちばんまともというか、愛嬌と人間味があったように思います。
さて覚悟完了した本島は央楼大統領となり35年かけて、『Sphere of Sphere』の理想を完成させたと。スピーチで語る彼は満足そうにみえて、本島は確かに自身を自身で救ったんだなと、救ってしまったんだなと思いました。ただその理想は、本島が願う存在をすべて救えるものではなかったと、その後のクニヤスとヒロシの登場・会話で示される。まあそりゃそうだよね、何に苦しみを見出すかは個人によるし、それが苦しみだとしているのは自身だから。またたとえ形のうえで望まれて生まれてきたとしても、親となった人が求めることと、子が求めることが同じとは限らないしなぁと。彼らは結果は繰り返したと、クニヤスは、同じように実父には会えなかったと話したけれど。父親に求めてもらえなかった、という構図が繰り返しとして、まず実父がそうで。またここから想像なんですけど、クニヤスは育ての両親からは踊る人生を望まれていないのかもなあ、と思いました。本当のルーツが気になったといえ、両親と良い関係ならそれだけで、被侵略真っ最中の国に来るかしらと……育ての親とうまくいかなくて、遺伝子上の父のことが気になって、という方がしっくりくるなあと。ホログラムの本島を見つめるクニヤスの表情が、憧れとか、求めているけれど絶対に手に入らないものを見るような、どうしようもない、やるせないものを見ているように見えて、ここの表情が一番印象に残っています。「踊っているだけの人生がよかったのに」は、自分に言っているようにも聞こえるし、覚悟完了してやりとげちゃった本島への言葉にも思えるし。また、「すきな詩人も言ってたじゃん。決めなくていいって」という台詞、ここの「決めなくていい」はどういう意味かなって最初思って。いろいろ取れると思うんですが、観劇3回目のとき、本島が捉えていたよりももっと広くて素直な、大きなものに聞こえて……それこそ「苦しみを苦しみと思わなくていい」というような、赦しの言葉なのかなぁと思ったりしました。なんというか終盤からラストの一連のシーン、とても静かで美しくて好きなんですよね。うろ覚えですがヒロシの「なんで踊ってたの?」からのクニヤスの「存在していたくて」「踊らなくても、存在はしていたんですけど」というセリフも好きで、この台詞も本島自身の苦しみの一つの答えになるよねと書いてて気づきました。
終盤のダンスシーン、観劇2回目のときは、前述したようなどうしようもない、やるせない気持ちをなんとか昇華しようとしてもがいているように見えたんですけれど……3回目のときはもう少しいろいろ素直に受け止めて観ようと思って、そしたら明るかったというか。(座席的な意味で)俯瞰したことも影響したかもしれませんが。もっと純粋に、父親との交流を楽しんでいるように見えたんですね。それは本島とクニヤスであり、またありし日の本島と育ての父の姿でもあり、血のつながりや遺伝子とは関わりのないところで、彼らの場合はダンスという形で、受け継がれるものがあるということかなと……これはここでは、希望みたいなものなのかな。
ラストの、クニヤスが『Sphere of Sphere』を回してカプセルを開けるところ……どこか衝動的というか、ふと回したようにも見え、その意図は掴みきれないんですけれど。なんにせよそこにはもう生まれうるものは入っていなくて、求めるものもなくて、でもクニヤスは存在している。クニヤスにはなにがあっても生きていってくれ、と願うばかりです。
とまあここまで書いてて、いやこんだけのもの当て書きされて、表現しきってしまう新原さん、とんでもないな??という結論に結局は着地します(笑)。観劇1回目は正直、新原さんの存在感と表現力と、物語の情報量に圧倒されるばかりでしたので……。正直、物語の中で同意する部分ってそんなにないんですけれど、それでもこれだけ惹き込まれてしまうのは語りの面白さや演出の楽しさであり、演者さんたちの表現力のたまものだなと。もっと言うと、新原さんのダンスの表現力の要素がかなり大きかったように思いました。
演出上のポールや柱、ガチャガチャの見立ても面白かった、とくに本島が生い立ちを独白しているところ、相島さんがあちこち動かしているのも、話に合わせていろいろ見立てていたんだろうなと思って3回目は観ていました。
これだけ頭をぐるぐる動かしたのは久しぶりで、忘れられない観劇体験になりました。また機会があれば池田さんの他の作品も観て見たいと思います。