「バースデー・ワンダーランド」の感想

 現在、劇場公開中のアニメ映画「バースデー・ワンダーランド」、観てまいりました。最寄りのイオンシネマで鑑賞したのですが、恐らくコナンくん目当ての人・人・人でロビーはごった返しておりまして、しかしながら本作が上映されるスクリーンはというと私含め観客数10名程度と、興行的にものすごーく心配な客入りでございました。しかし反面、客数が少なかったことで作品にはじゅうぶん集中でき、ひとつ感想でも書いてみようかしら、となった次第です。つらつらと筆を進めていければと思います。

作品前説

 本作は、柏葉幸子 著『地下室からのふしぎな旅』(青い鳥文庫)を劇場アニメ化したもので、監督は「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」などで知られる原恵一さん。原監督の最新作ということに加え、クレしんシリーズで共演のしんのすけ役・矢島晶子さん、ひろし役・藤原啓治さんが悪役でキャスティングされたとあっては、たったそれだけの前情報だけで私は本作にだいぶ興味を持ちました。――しかしながら上にあります90秒予告を観た感じ、何となーくですが、、、地雷(笑)映画のような気もしたため、鑑賞料1800円投資は避け、毎月30日のイオンお客様感謝デーを狙い澄ます暴挙に走った訳であります。予告編を見た感じ、映像は大変美しいのですが、シナリオに深みがあるのかどうも確証を得られなかったのです。そしてこの虫の報せは、案の定、的中してしまうことになったのでした。。。

あらすじ① ~登場人物の配置~(以下、ネタバレあり)

 本作のあらすじを一言で述べますと、主人公の小学校高学年生・アカネが、異世界での冒険を経て、後ろ向きな性格を改善し「前のめり」になる物語、という感じです。自由奔放で歯に衣着せないバックパッカーの若叔母・チィさんも異世界に同行し、冒険に対して引っ込み思案なアカネの性格を引き立てる援助者としてのポジションを確立しています。

 舞台となる異世界では案内人のポジションに錬金術師のヒポクラテスと弟子の小人ピポを加え、彼らが世界の命運を主人公に背負わせ、冒険に引きずり込んでいくという仕掛けです。ヒポクラテスいわく、舞台となっている異世界は「もしも産業革命が起きず、人びとが牧歌的な生活を続けていたら」という仮想現実のようなもので、人びとの生活は質素ながら幸せに満ちていたものの、現在は言わば深刻な水不足から「色が失われてしまう」危機的状況にあり、主人公はその危機を打開しうる救世主にある日突然抜擢されてしまう訳です。

 主人公、援助者、案内人、舞台の設定までは上手くいっているのですが、本作で致命的だったのは映画の前半、敵対者の情報量が少なすぎたことでしょう。ブリキの身体を持つ正体不明の敵対者・ザン=グは、牧歌的で争いのない異世界には似合わない重戦車なんてものを転がしながら人びとに恐喝・略奪を繰り返し、手下のドロポに至っては元に戻せる確証もない変身魔法を一般市民に向けるような輩です。登場したてのうちはただのやくざ者でしかなく、「なんだ、感じ悪いヤツがいるな」くらいなもので、主人公たちの行く手をどう阻んでくるのかさっぱり分かりません。そればかりか、何のために略奪しているのか、最終的に何を狙っているのか、それはなぜなのか、目的やその手段までもいちいち小出しにしていくため、感情移入のしようがない極めてミステリアスな悪役になってしまっています。

 もちろん、本作終盤にはこの敵対者の正体や目的、抱えている問題意識などが次々と明かされ、それまでの傍若無人の振舞も「ああ、そういうことだったのね」と納得できるように組み立てられてはいるのですが、しかしながら、とにかく私が言いたいのは《敵対者の野心や感情は前半のうちに説明しておくべきだった》という一点です。映画のラスト近くになって明かされたのではもはや手遅れなのです。なぜなら、観客の側からすれば、前半のうちに与えられた情報でもって、それぞれの登場人物のキャラクターや行動の目的を判断して、それに同化(≒感情移入)しようと試みるからです。前半のうちに目的や野心がはっきり説明されているキャラクターならば、その後の行動からキャラクターの感情を読み取ることができ、「ああ、このキャラの気持ち分かりますわぁ」と納得しながら続きを鑑賞することができますが、前半戦終了してもなお謎めいているキャラクターというのは、後半戦で感情移入しようにもどう感情移入したら良いのやら、取っ掛かりが見当たらないのです。

 翻って、なぜ私がここまでして敵対者にこだわるのかと言えば、私は敵対者こそが物語作品の言わば第二の主人公であると考えるからです。主人公を最大限に引き立てるためには、主人公といくつか共通項がありながらも性格は真逆という敵対者を配置して、それでもって主人公にしかない信念や人としての魅力を対比的に描いてやる必要があると思います(もちろん敵対者の存在しない人物配置の方法もありますが、だとしてもそういった作品は、主人公が何かしらの試練や困難に立ち向かうような作品に仕上がっているはずです。異常気象に立ち向かう映画などはまさにこれですね)。あるいは上手な作品は、たとえ主人公がミステリアスであっても、敵対者の価値観や目的が読み取りやすくなっていて、そこから主人公がどんな人物であるのか逆引きできるようになっていたりもします。……本作の主人公はミステリアス、と言うか、どこにでもいる普通の女の子。そのため「海賊王に俺はなる!」みたいな分かりやすい信念が彼女に無い以上、敵対者側に何かしらぶっ飛んだ価値観を持たせて、それに主人公はどう立ち向かうのかが描かれなくてはならないはずなのです。ひとまずここでは、私は敵対者に重きを置いて、更に本作を読み込んでいこうと思う次第です。

あらすじ② ~敵対者・ザン=グの精読~

ーーー以下、物語の根幹に関わるネタバレがありますーーー

 本作の敵対者・ザン=グの目的は、簡単に言ってしまえば《自分に課せられた理不尽の大元を破壊してしまいたい》というものです。彼の正体は実は異世界の王子であり、彼の一族は代々、言わば雨ごいの儀式を執り行うことで世界の治水に貢献してきたのです。しかしながら、彼は両親である国王と王妃を相次いで亡くしてしまい、その結果、世界には深刻な水不足の危機が生じ、いよいよ彼自身が雨ごいの儀式を行わなくてはならなくなります。ところが、この儀式、必ずしも成功する保証はどこにも無く、失敗した場合は自らを人柱にして世界に雨をもたらす他ないという、何とも理不尽な仕様になっている訳です。

 両親を失ったうえ、いきなり命がけで世界に貢献しろ、と言われても、やはり彼はそれをなかなか受け入れることはできず、やがて性格は荒み、度々ダウンタウンを徘徊するまでになってしまいます。それを見兼ねた王室専属の大魔法使いが、自身が1年間「冬眠」しているあいだに王子が逃げ出してしまわないよう、なんと王子を小さなブリキ人形に閉じ込め自由を完全に奪ってしまったのでした。しかし彼は、後に手下になるドロポの下手くそな変身術を受けて、どうにか身動きができるほどにまで回復し、寝台にダミーのブリキ人形を置いて城から抜け出すことができた、という身の上なのです。

 彼はその後、生きていくための食糧を人びとから恐喝し、重戦車を築き上げ、更にこの世界のありとあらゆる鉄を略奪して砲弾を作り上げます。その大砲の標的は、雨ごいの儀式が執り行われる予定の場所――巨大な枯れ井戸で、王子の姿に戻るはずだったブリキ人形を心配そうに取り囲む家来たちの野営テントもろとも、大井戸を破壊してしまおう、という野心に駆られている訳なのです。

 はい。ここまでまとめてみて改めて思うのですが、設定自体はめちゃめちゃ魅力的だし、そりゃあグレるよなぁ、という重いものをちゃんと背負ってる、そんな敵対者に仕上がってるんですよね。両親いっぺんに亡くしたうえ、いきなり命がけで親の仕事継ぐとか絶望感しかありません。しかも逃げ場を求めてダウンタウンで不良たちとつるんでみたら、儀式の日までブリキ人形に監禁される有様で、このどれもこれも全部、大人の都合なんですよね。儀式を継がないと大人たちが困るから、あるいは、お目付け役の大魔法使いが1年間「冬眠」する間に逃げられたら困るから、彼はガンジガラメにされてしまう訳です。こんな理不尽はありませんし、これなら儀式会場を大人たちもろともぶっ飛ばしてしまおうというテロリズムにも納得ができます。

 さらに言うと、ちゃんと主人公との共通項や対比が幾つか見られます。例えば、現実世界の友人関係で理不尽を課せられている主人公と、命がけの儀式を課せられている敵対者は、実は抱えている問題意識自体は非常に似通っているとも言えます。現実世界で主人公は、ともすればいじめに発展しかねない、クラスの女子グループ内での悩みを抱えており、当事者にしてみればそれは命がけの問題と言って差しつかえないものではあるでしょう。しかしながら主人公には、学校をサボらせてくれる母親や、異世界紀行(≒つまり現実逃避)にノリノリな援助者の存在がありました。一方で敵対者には、前述の通り逃げ場がどこにもありません。そのことが、平和主義の主人公と実力主義の敵対者、という違いを生じさせていくことになるのです。

 物語の終盤では、学校をサボることもできる主人公が、しかしその逃げ道に頼らずに自分の抱えている問題と真正面から向き合う決意をしたことに敵対者の心が絆され、二人で一緒に儀式を乗り越えようという方向で和解し、儀式に挑んでいきます。ちなみにこの段階では、死のリスクのある儀式だということは主人公にも観客にも明かされておらず、敵対者のみがそれを知っています。儀式が失敗したかに思われた際、人柱として井戸に身を投げようとする敵対者を主人公は必死になって止めています(そして一緒に落ちてしまいます)。ですから、もし事前に死のリスクについて主人公が知っていたなら「私も頑張るから《一緒に》頑張ろう」といった旨の理不尽な言葉も無かったと考えられます。逆に言えば、敵対者は主人公の言葉にだけは理不尽さを感じなかった、と言えるでしょう。彼の悩みや問題意識は彼だけに課されるばかりで、周りの大人の誰一人も《一緒に》悩んではくれず、さまざまな理不尽に立ち向かう彼はいつも孤独でした。主人公はそんな彼に――それもやくざで見た目が恐ろしいブリキの彼に――初めて手を差し伸べた存在だったのです。

 上述の内容と重複しますが、やはり本作の機能不全は、キャラの立て方自体にではなく、立てたキャラの説明が不足しており極めて観衆に不親切だった、ということだと思うのです。前半のうちからもう少し敵対者の身の上話をしてあれば、物語が進むにつれスクリーンでのリアルタイムな体験として、敵対者への気づきも得られたでしょうし、もっと感情移入できたことで彼が最終的に救われたことへの達成感も増幅したに違いありません。上で分かりやすく(自分で言うのもアレですが)記されている敵対者の身の上話を、本作ではあえて分かりづらく、情報を小出しにしてしまいました。ですからザン=グとはいったい何者なのか、どうして鉄ばかりを略奪しまくっているのか、略奪した鉄を加工して砲丸を作ったようだけれど標的はいったい何なのか、どうして大井戸を標的にするのか、という疑問が次から次に浮上してしまい、最終盤で一気に答え合わせをする感じになってしまいました。さながら、まるで別スクリーンで上映中のコナンくんの謎解きパートみたいな感じで、謎が解けてスッキリはするものの、私たち観客も敵対者と《一緒に》苦悩し、覚悟し、行動できたかと言うと、本作はそこまで観客を引き込んではいなかったように思います(余談ですが、原監督の手がけたクレしん「オトナ帝国」では、敵対者の目的が序盤からしっかりと描かれ、敵対者側にも十二分に感情移入できた傑作に仕上がっていました)。翻って、前述もしましたが、敵対者に感情移入しづらい映画というのは主人公の価値観も逆引きしづらくなるため、どこにでもいるごく普通の女の子の価値観の推移(≒成長)が追いづらくなってしましました。謎解きパートで唐突に成長したかのような印象もあったかもしれません。……いずれも、敵対者の情報を叙述する順番の問題だと思われますので、本当に、実にもったいない凡作に仕上がってしまったなあという哀しみにも似た感情に苛まれている次第です。

独善解釈「敵対者・ザン=グと原監督の共通項」

 ここからは、私のてんで勝手な解釈を本作に加えることで、本作を少しでも救済し、供養していこうという、完全に上から目線&身勝手極まりないコーナーになります。この作品は本当はこういうことだったのではなかろうか、だとしたら意外と面白いのではないか、というやや飛躍気味のアクロバティックな可能性の提示になります。例えばスポーツクライミングでは当然、指を引っ掛けるための凹凸があってどうにか上に登っていけますが、映画に解釈を加えるという行為はまさに真っ平らでつるっつるな壁面をどうにか少しでも楽しめるものにできるよう、そこに凹凸を加えていくプロセスだと私は考えます。また、解釈の提示はお金を払って映画を鑑賞した観客の権利であり、かつ映画を楽しむ醍醐味のひとつとも考えておりますので、またつらつらと書き連ねていきますが、苦手な方はいわゆる「そっとじ」していただければと思います。

 さて、本稿では敵対者・ザン=グと主人公との共通項について触れましたが、実は主人公・アカネ以上にこの敵対者と共通項に富んだ人物がいるのではないか、と私は思うのです。その人物として、私は他でもない本作の監督、原恵一さんを挙げてみたいと思います。本作の世界観とザン=グに課せられている理不尽を私たちが生きている現実の世界線に重ねてみると――制作者陣が狙ってやったかどうかはともかく――昨今の日本の物語映画の潮流と原監督が背負わされた理不尽のメタファーとして本作は成立しうるのではないか、と思うのです。

 まずは本作で描かれている異世界「幸せ色のワンダーランド」についておさらいです。この異世界は私たちの生きている現実世界の平行線であり、蒸気機関の発明以降、もし産業革命が起きていなかったら、という仮想現実のような感じで、人びとの暮らしは質素ではありますが非常に牧歌的かつ幸福感の高いものになっています。しかし、雨を司る国王と王妃の相次ぐ死去により、深刻な水不足が生じており、異常気象が起きたり「色が失われてしまう」事態に陥ったりしています。実際に色が失われていく描写が無いのがやや物足りない気もしますが、どうやら生命に満ち溢れたワンダーランドから生命力が失われていってしまうのを「色が失われる」と表現されているようです。

 そしてこのワンダーランドの命運を握っているのが、無くなった国王と王妃の世継ぎであるザン=グでしたね。もっとも、彼自身は世継ぎになりたくてなったのではありません。無論、命がけで雨ごいの儀式をしなくてはならないことにも完全に納得できているわけがありません。が、しかしながら周囲から求められる彼の価値はワンダーランドに雨をもたらし、世界を「幸せ色」で満たすことでしかなかったのでした。

 かなり乱暴ではありますが、ワンダーランドの世界観を今日の日本の映画制作に、ザン=グを原恵一監督に当てはめて、物語を再解釈してみたいというのがここでの試みになります。かなり強引な手法になりますが、その結果として本作のストーリーは現状とはまた違った様相を見せはじめるでしょう。あるいは私の強引な解釈・スジ立ても最初から意図的に物語に組み込まれていたのであれば、もう少し深み(毒っぽさ)のある作品に仕上がっていたはずなのです。本作をこれから鑑賞するという人であれば「こういった見方もアリなのか」くらいに思って頂ければ幸いですし、もしこれを読んで本作をもう一度見直すきっかけになったという人がいれば、それは非常に喜ばしいことです。

 まず今日のアニメ映画作品群の潮流としては、高畑勲監督、宮崎駿監督、押井守監督、といった日本を代表する監督たちの牽引力は、以前に比べてしまえばもうだいぶ弱まってしまっていると言う他ありません。原監督は元々アニメーションにはそんなに強い興味関心が無かったそうなのですが、専門学校時代の文化祭で「パンダコパンダ」などを観て、アニメーションというものを見直した、とも語っています。その「パンダコパンダ」こそ高畑勲監督と宮崎駿脚本によるもので、原監督は間違いなく二人の背中を追いかけて走って来られたことでしょうが、今日では高畑監督はすでに亡くなられ、宮崎駿監督も一応引退されています。更に言うと、原監督は専門学校時代は名画座に通い詰め、小津安二郎や木下恵介といった実写映画監督の骨太なシナリオと演出に強い影響を受けたそうですが、しかし、今日の邦画の物語表現のクオリティなどは当時の作品群と見比べてしまうと目も当てられない悲惨な状況です。もちろん、是枝監督の「万引き家族」などの成功例もあるのでしょうが、その一方で、日本映画の年間興行収入TOP10を飾るのはほとんどがマンガ原作の実写映画で、あとはコナンくん、ドラちゃん、クレしん辺りだということも事実なのです。

 さて、日本の物語映像表現の閉塞感について触れましたが、これをあえて、水不足で色が失われていくワンダーランドの危機的状況に重ね合わせてみたいのです。現状、日本映画界には「巨匠」と呼べるほどの大監督は、残念ながら不在です。これは間違いありません。日本の映画業界は、国王・王妃という実力者を失ったワンダーランドよろしく、奇しくも同じように重篤な危機的状況にあると言えるでしょう。

 ザン=グと原監督は、それまでは親世代の背中を追っていれば良かったのに、ある日突然、自分が皆の先頭に立って儀式を行わなくてはならなくなった、という点で酷似しています。ザン=グに関しては前述のように逃げ場がないことを確認しましたが、昨年11月に紫綬褒章を授与された原監督もまた、もう逃げ場なんてどこにも残っていなかったのでないでしょうか。これは邪推ですが、原監督自身、小津や木下、そして高畑監督や宮崎監督の域にまで達せるとは思っていないでしょう。しかしながら、学術・芸術に多大な貢献をした人だけが与えられる紫綬褒章まで受けたとあっては、いよいよ次の「巨匠」をやるのは原監督の番、ということになってしまいます。自分に影響を与えた人を二人、ほぼ同時期に失い、さらに自分がその二人の代わりを務めなくては間違いなく世界が滅ぶ、という理不尽を背負わされている点がまさにザン=グと原監督とをリンクさせているように思われるのです。

 もちろん、上で述べた解釈はかなり乱暴な、思いつきのこじつけとも言えるような空論です。なぜなら、本作においては原監督は監督としてクレジットされているだけで、脚本にはベテラン脚本家の丸尾みほさんを招いているからです。つまり監督自身が物語を創作したのでない以上、上述のザン=グと原監督とのリンクもたまたまの偶然に過ぎず、まだまだ疑問の余地が有り余る解釈に他なりません。しかしながら一方で、丸尾みほさんもまた日本脚本家連盟ライターズスクールで学ばれた、言わば硬派の物語映像作家の一人であり、かつ、原監督とは2010年の「カラフル」で一緒に仕事をしています。彼女自身も「巨匠」不在の日本映像業界に身を置く一人だということ自体は、疑いの余地もありません。

 以上のように、私は、本作が実は原恵一監督自身をモデルにしているのではないか、という極めて微弱な可能性を、それでもあえて提示します。はっきり言ってしまえば、本作は普通に真正面から物語構造を解釈しただけでは凡作と言う他ない出来栄えです。最初にも言った通り、1800円投資するにはいささか危険な案件であり、残念ながら、どっちかと言えば地雷作品なのです。しかしながら「オトナ帝国」の原監督が、しんのすけ役の矢沢さんとひろし役の藤原さんを声優として招き、それも敵対者コンビに配役したことには、演出上なんらの意図も無かったとは思えず、そこにあえてフォーカスした作品鑑賞を試みるのも一つアリなのではないか、と本作には感じました。いえ、もしかすれば、そう思わせて劇場に足を運ばせるためのキャスティングだったのかもしれません。私もまんまと乗せられてしまった一人なのでしょう。しかしながら、何はともあれ、凡作としてただ埋没していくだけとは思えない何かがあったと、本作からは感じられたのでした。

 原監督いわく、アニメ業界には友達が少ないとのことです。本作でのザン=グは最終的にアカネと《一緒に》雨ごいの儀式を執り行い、どうにか成功させ、ワンダーランドの危機は去りました。さて、原監督に課せられた理不尽に《一緒に》立ち向かう誰かは現れるのでしょうか。あるいは、色が失われつつある現代日本の物語映画業界に雨をもたらす「巨匠」ははたして誕生するのでしょうか。2019年は私が個人的に注目しているアニメ映画が次々と封切られます。今後の動向を見守っていければと思います。

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