観覧車とさすらい鮭
観覧車に乗った途端に、彼女はさすらい鮭の話を始めた。
「さすらい鮭?」と僕は反唱した。それは付き合いはじめてまだ2週間しか経たない男女が観覧車の中で始めるにしては、風変わりな逸話だった。
「そうよ、さすらい鮭。海や川を泳いでいる魚の鮭。北海道ではたくさんの羆に待ち構えられて、長旅もむなしく大きな口の中に飛び込んで引き裂かれてしまう哀れな鮭。その中でももっとも哀れな種族が、さすらい鮭なの」
「魚の話なのは分かったよ。でも今、どうして鮭の話なのかな?」
彼女は僕の至極まっとうな疑問に取り合わなかった。NFLのランニング・バックが、日本の地方国立大学のディフェンスをひょいひょいとかわしていくみたいに清々しい無視だった。
「鮭というのは秋から冬にかけて、生まれ故郷の川に帰るように習性づいているの。それは学習とか理性とかそんなものを超えた、本能として鮭たちに根づいているの。根づいている、なんて生やさしいものじゃない。本能という言葉がばかばかしいくらいに強固な力で、鮭は生まれ故郷の川に縛りつけられているのよ。まるで実家のしきたりにがんじがらめになって身動きができない可憐な少女のように」
彼女は「しきたり」という言葉に異様なまでの力を込めて発音した。僕の彼女に対する浅い知識においては、彼女は大分市にたまたま赴任したサラリーマンの家庭で生まれ、大学の進学に際して福岡での独り暮らしを許されているという比較的自由な身分だった。しかし僕は彼女の話と「さすらい鮭」の話が比喩的にあるいは暗喩的に関係があるのかどうかも読み取ることができなかったので、ただ黙って観覧車の窓外を移る山々を眺めていた。僕達の乗ったゴンドラは、全円周のうち三分の一を過ぎようとしていた。
彼女は息継ぎをして言った。
「さすらい鮭はね、そんながんじがらめの鮭とはまた違ったさだめを抱えているの。鮭というのは本来的に、宿命としての哀しさをたずさえた生き物なのね。まったくのところ」
「それはどんな哀しさなんだろう」と僕は言った。何かを言わなくては、そのままゴンドラが墜落して手足がバラバラになってしまう気がしたのだ。
「さすらい鮭はね」と彼女は、人差し指を出して僕の話を制しながら言った。「本能に縛られたままなのに、川の流れに帰ることはできないの。その結果、鮭たちはずっと、そう文字通りずっと、世界を北海も太平洋もいったいそこがどんな緯度経度に位置するかもわからずに、さまよい続けることになるのよ」
僕はふぅむと唸った。何か気の効いたコメントをしたかったけれど、僕は魚類の習性に関する有効な知識を持ち合わせていなかった。窓辺に、一匹のキイロスズメバチが寄ってきた。僕はそれが室内に入ってきてしまったらどうしようかと思い、意識を鮭の対話から逸らせてしまった。
「あなたはさすらい鮭らしい人よ。でも私は違う」と彼女は言った。キイロスズメバチは窓を忌々しげに叩きつけたあと、窓外の景色を上から下に切り裂くように飛び出して言った。
「それは、何か文学的なメタファなのかな?『蟹工船』の缶詰みたいにさ」
「あなた、ひどい冗談の使い手だって言われない?」
彼女は怒っている風には見えなかったけれど、楽しんでいるようにも見えなかった。僕は彼女の表情からさすらい鮭の意図と背景を読み取ろうとしたけれど、そこにはどんな海のどんな水流も読み取ることができなかった。寒々しいオホーツクの海だって、もう少し何らかの意味を与えてくれるような気がする。
観覧車はいつの間にか円周の70パーセントほどを周回し終わっていた。
「てっぺんからはさ、関門海峡が見えたんだ」と僕は言った。しかし彼女は僕の顔を、顔のうちどこを目がけて見つめているのかわからないような表情で見つめ続けた。僕はその視線にさえ、幾ばくの意味をも読み取ることができなかった。
その日のデートの別れぎわ、彼女は僕に、次は水の見えるところへ行こうと言った。
「水の見えるところって、たとえば海辺のカフェとかそういうことかな?」と僕は訊いた。11月のその日、僕はとても海水浴場で肌を焼くことなんて考えつかなかったのだ。
「何でもいいわ。とにかく水が見えるところ。滞りがなくて、ゆるやかにやすらかに水が絶え間なく流れ続けているところ。そんなところでなら、あなたと解りあえる気がするの」
「分かりあえる」と、僕は彼女の提案を反唱した。
「じゃあまた。絶え間ない水の流れのあるところで」
彼女はそう言って、僕のことを遊園地の入り口を出てすぐのところで置き去りにした。僕はかるく右手をあげ、何も言葉にできぬまま彼女を見送った。
季節が冬に向かいはじめる音がして、その年はじめての木枯らしが吹いた。冷たく肌を切るような空気の流れを泳ぎながら、僕はさすらい鮭に会ってみたいような気がした。