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緑の路地(未完)

僕は路地の奥へ、灯りを目指し進んだ。

7歳の僕はまだ、暗闇の中に浮かぶ灯りなんてものを強く認識したことがなかった。今思えば寝かしつけの時に母がそっと灯してくれたランプであるとか、夜半過ぎに便所へ行くために恐る恐るつけた電灯であるとかを見たことがあったのかもしれないが、その暗い路地の向こうに見えた灯りを僕は、それまでに見たどんな灯りとも違うものとして感じたし、そう記憶している。あるいはそれは、実のところ本当に初めて感覚する類のものだったのかもしれない。

一歩、二歩。路地の砂利の音をできるだけかき消すよう努めながら僕は灯りへと近づいていった。路地の幅は小学校低学年の子どもがちょうどすれ違えるくらいで、片方はトタンの壁が錆びついて重々しく、反対はコンクリートの壁面が黒ずみところどころが苔むしていた。

僕の歩みが遅いのと対照的に、それはいつの間にか目の前にやって来た。灯りからふと目を離して足元を気にした瞬間、その光源は僕のすぐ傍までやって来たのだ。

「これはこれは、予想外のことじゃないか」

7歳の僕に向かって、鯰は日本語でたしかにそう言った。それは中空に、ちょうど僕の目線あたりにふかりと浮かんだ、紛れもない鯰だった。僕は当時福岡の主要街区に住んでいたので鯰なんて見たことなかったけれど、その時はすぐにそれを鯰だと認識できた。あまりに鯰らしい、鯰でしかありえない鯰が僕の目の前にふかふかと浮かんでいたのだ。

「ヨソウガイって、なに?」と僕は言った。お魚と話せるなんて不可思議も、7歳の新芽みたいな現実性はすいすいと飲み込んでいった。

「予想外はな、そんなことあり得ないってことだよ。今日はな、誰も来ない予定だったんだよ。予定は未定ってとこだ。だからこうして俺はさ、ミミズの練り物をいそいそと拵えてたってわけなのよ。それをなんだい君は、どうして入っちゃったの」

僕はとっさに「ごめんなさい」と謝った。どうやら鯰の家か巣か、そんなところに入ってしまったらしい。罪の意識というよりは、とにかくその場をしのぎ逃げ出したい気持ちだった。鯰なんかに捕まって説教をされてはたまらない。夕飯はハンバーグステーキと聞いているのに、せっかくのごちそうが冷めてしまうなんてことは僕には耐えられなかった。

「はいってくるつもりはなかったんです」

「つもりはなかった」と鯰は言い、深くため息をついた。記憶は定かではないが、ゴボゴボという音がしたように再現している。路地の砂利のうえで、鯰は淀んだ水の中で気泡を出すみたいにため息をついた。その様子は、この世の中で最も忌避すべき出来事が起こったと憂いているようだった。

「それが問題なんだよ。つもりはなかった、というのがね。ここはね、いいかボウズ。夏休みの宿題をなんべんもなんべんも終わらせるくらいに考えて考えて考えて、ようやく来ようという決意ができる場所なんだな。え、お前?そういこと、わかるか」

「わかんないな。ぼく、シュクダイしないんだ」

鯰は、阪神が8連敗した日の夜の大阪人のような顔で「これはこれは」と言った。

哀しそうに打ちひしがれていた鯰はふと、僕の着ているセーターを指さして言った。

「なあ、それはさ、なかなか着心地の良さそうなものだよな。なんて言うんだ」

「これ?これはセーターだけど…。おさかなはフクなんてきないでしょう、プードルじゃないんだしさ。タダシくんところのプードルはまいにち違うセーターをきせられてさ、それってちょっと」

「いいか、ボウズ」と、鯰は前びれを僕の目の前に叩きつけるようにして話を遮った。つんとした匂いが鼻先を刺激した。

「タダシくんもプードルも今は関係ないんだぜ、え?日本国首相も米国大統領も一切今は関係ないんだ。これは俺とお前と、その素晴らしいセーターという服の関係性なんだ。ちなみに鯰だって服くらい着るさ。そこんところは抑えてもらわなくちゃ困るから言っておくぜ」

僕は緑のセーターをぎゅっと握りしめた。ソウリダイジンの話をしながら急にテレビに向かって父さんが怒鳴り散らすのを見たことがあって、恐怖を感じたのだ。

「セーターがどうしたのさ」

「いいか、悪いことは言わないからさボウズよ、え?それを俺に寄越してここを去るんだ」

鯰はきっぱりと、百年来の史実を告げる優秀な学芸員のような(と、今の僕が想起するような)口ぶりで僕にそう告げた。

「だめだよそんなことしたら。ぼく、お母さんになんていわれるかこわいよ」

「選ぶことはできない。ボウズ、そのセーターを着たままでいるということは、もうお前はここから出られないんだ。後ろを見てみな?」

僕は言われるままに後ろを振り向いた。その時僕は初めてその路地の入り口「だった」方面を振り返ったのだけれど、そこにはもう僕が慣れ親しんだいつもの弁当屋横の通りの気配はなかった。辺りは一面のトネリコの木に囲まれて、鯰と僕がいる小さな半径の円だけがぽっかりと砂利道のまま残されていた。6月の夕暮れのような蒸し暑い空気がそこかしこに満ちた空間を、僕はおずおずと見渡すことしかできずにいた。

(緑の路地/The Green Threshold)
※未完※