閉園後は誰と
動物園や遊園地の閉園の音楽を聴くと、同時に様々な音が追いかけてくる感覚に襲われる。それはまさに「襲われる」というにふさわしい心理的圧迫であり、アンサンブルやシンフォニエッタという響きのよいものではない。夏の終わりの蜩の音を聞きながら帰り途につくときのような、言いようのない虚無感に似た気持ちがどんな季節においても僕を貫くのが、動物園や遊園地の閉園の音楽なのだ。
ライオンは退屈そうに池の水面を前足でかき、テナガザルは今日何度目かわからない雄叫びをあげながらたった一匹の戦いに出る。一方でヨウムはもう鳴くのをやめてしまい、アルマジロは真実のイデアのように丸くなった。そんな動物園の17時には、いくつかのスピーカーが壊れているのではないかという音で曲名も知らぬもの哀しい歌が流れる。
〽あしたのきみは きっとつよくなれるさ
またおいでよ どうぶつえんへ
みんなみんな きみを まっている
ずっとつよくなった きみのことを
またおいでよ どうぶつえんへ〽
なんの意味もない、動物達だって毎日聞かされ続けてクーデターを起こしかねない代物だ。僕はひそやかに、檻の中のチンパンジーに同情の視線を送りながら園を後にする。
遊園地の閉園曲も胸にくるものがあるけれど、佐賀県嬉野にある「メルヘン村」のそれだけは特別に前向きな気持ちになれる唄だ。『わすれもの』という曲名がついたその歌を、ぜひ聴いてみてほしい。叶うのであれば『わすれもの』を聴きながら、そっと右手を体側からわずかに差し出してみてほしい。
その右手にふれるあたたかみこそが、あなたの生涯の「今時点」での心の支えである人物がもつあたたかみである。そんな力が『わすれもの』には備わっている。
よく実感がわからないという方は、一度佐賀のメルヘン村を訪れてみてほしい。忘れていた箱の中身を、見出すことができるだろうから。
(閉園後は誰と/With Whom I Will Be After Closing-Down)