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恥ずかしい男

「恥ずかしい男だね」

そう言われた男は、ハコフグのように膨れながらラーメン店「珍珍楼」の入口で立ち尽くした。会計の際に298円だったところ303円で支払ったのに、その意図が理解されず「3円は要らない」と突き返されたことで激怒したのだ。血が沸き立ち、幾筋かの血管がこめかみに浮き出た。長袖のワイシャツをまくり上げた折り返し部分は、脂を増したラーメンのぎとつきのせいか男の怒りにより汗の粘度が増しているのか、音が出るほどに腕へと絡みついた。

「恥ずかしい男だよ、あいつに似てさ」

珍珍楼のアルバイト店員は再度、ハコフグにそう告げた。「あいつって何だ」と男は思ったが、思考を巡るその言葉はついに音声とはならずに憤怒の粘り気に巻き取られた。3円を巡る彼の怒りは海底の砂を巻き上げ続けて理性を失わせたし、なんと言っても彼はハコフグなのだ。

しかし一つの思考としての「あいつ」は彼の中で漂い続ける海月のようにさまよい、浮き上がり、淀んだ。そうしているうちに、胃のあたりに詰まりこんでいたグリーストラップみたいな凝固体がほどけていった。「俺はあいつなのか」。

「あんたはあいつに似ていてなお、あいつにはなれないよ」

アルバイトの女はそう言って、彼に一円玉を5枚渡した。今まさに国際的な裁判を二つ三つ片付けて来たかのような態度で、彼女は会計を一つ済ませた。有無を言わせずに。

「俺は…あいつにはなれない。誰にも…」

ハコフグはハコフグでしかない。海月にも、海豚にも、ペンギンにだってなれない。ハコフグは地の果てまで行こうが深海の奥にあるアビスに辿り着こうが、ハコフグのままなのだ。

「ありがとな、邪魔したよ」

彼はひとつの悟りを得て、珍珍楼を後にした。

アルバイトの女は彼がせき忘れた店の入口を忌々しく閉めながら、店前の路地に向かってギリシア時代から護られた真理のように硬い唾を吐き捨てた。

「恥ずかしい男」(The Man with Shame)