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RADWIMPSは、今日も「愛」と「理想」を鳴らす

【6/17(日)RADWIMPS @ さいたまスーパーアリーナ】

緻密で暴力的、ロジカルでエモーショナル、無数の音と言葉が燦々と降り注ぐ、光のミクスチャー・ロック、その最新型。

決して既存のフォーマットに収まろうとしないその先鋭的な表現が、2万人を超える観客に「ポップ」なものとして熱狂的に受け入れられている。

その眩い光景に、強く心を打たれた。

ツアーはまだまだ続くのでセットリストの記載は控えるが、新旧の楽曲が入り混じる今回のライブに、RADWIMPSというバンドの本質が鮮やかに表れているように思えた。

3年前、ドラムの山口智史が無期限の休養に入って以降、RADWIMPSは変わった。いや、変わらざるを得なかった。

そして、2年前の『君の名は。』の全国公開を機に、彼らを取り巻く状況も一変した。

サポートメンバーと共にバンドサウンドをゼロから再構築しながら、国民的バンドとしての役割を堂々と引き受ける。

その想像を絶するような激動の3年間を経て、新しく生まれ変わった今のRADWIMPSを観て感じたこと。逆説的ではあるが、それは「RADWIMPSというバンドの本質は、決して変わることはない」ということだった。

RADWIMPSの表現は、時に苦々しく、時に刺々しく、また、時に目を逸らしたくなるほど醜い現実を突き付けてくる。

それでも、彼らが本当に伝え続けようとしているのは、その先にある「愛」と「理想」だと思う。

彼らがデビューした当時、ゼロ年代の日本のロックシーンにおいて、RADWIMPSはあまりにも過激な存在だった。

それは、野田洋次郎の歌う「愛」の形が、宗教的なまでにラジカルなものであったからだ。

ただ「君」のことだけを想い、「君」にとっての「僕」が「僕」の全て。

真っ直ぐだからこそ生々しく痛々しい、その一人称の「愛」が紡がれることによって、この世界が成り立っていることを証明する。

そうした過剰で過密なRADWIMPSのラブソングは、しかし一瞬にして熱狂的な支持を得た。

女々しくて情けない、それでいて真っ直ぐに真理を射抜いた「愛」の歌は、ロックシーンにおいて強く求められていたのだ。

今でこそ、多くのロックバンドが当たり前のようにラブソングを歌うようになったが、ゼロ年代の日本のロックシーンに、その礎を築いたバンドの一つがRADWIMPSだ。

そして、「愛」の更に先に広がる「理想」を、野田は一切臆せずに言葉にして伝え続けている。

悲しい歴史を繰り返すことなく、昨日より今日が少しでも素晴らしい世界になるように。その世界で、僕たち一人ひとりが少しでも明るく輝けるように。

「あらゆる境界線を取り払い、人々を一つに繋いでくれるサッカーという競技」をテーマに制作された新曲"カタルシスト"にも、そうした清廉な願いが込められている。

現実がどれだけ救い難くあったとしても、野田はこの世界と真正面から向き合い、その上で責任を持って「理想」を言葉にして発信し続けてきた。

"HINOMARU"の一件について思うのは、本当に問われているのは、受け手の姿勢であるということだ。表現者が僕たち受け手を信じてくれているのであれば、尚更だ。

変わらないまま変わり続けるRADWIMPSは、今日も「愛」と「理想」を高らかに鳴らした。その光景にただただ圧倒された。

ロックバンドは、「愛」と「理想」を歌うべきである。照れることも、恥ずかしがることも、斜に構えることも、諦めることもせずに、堂々と。

ロックシーンにおいて、この共通認識は、年々強まっているように感じる。

だからこそ、RADWIMPSが担うべき役割は大きい。彼らが正真正銘の国民的バンドになった今、より強くそう思う。

※本記事は、2018年6月17日に「tsuyopongram」に掲載された記事を転載したものです。

「tsuyopongram」はこちらから


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松本 侃士
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