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「学び直し」にこめられた想い 〜ひめインタビューvol.3〜

ちずプロフィール: フォルケホイスコーレでの対話や小さなチャレンジを通して、自分を知る機会をたくさん得る。自分自身の受容と、人の輪の中で生きる温かさに浸り、「つわのホイスコーレ」立ち上げを発起。津和野3年目。埼玉県出身。

ひめプロフィール: 北欧の教育やデザイン、暮らし方に興味があり、いつか北欧に暮らしてみたいなと思っている。ちずちゃんにお誘いを受け、「つわのホイスコーレ」立ち上げに参画。津和野4年目。石川県出身。

「学び直し」に込められた想い。


ちず:「学び直し」ってことばをよく使う印象があるけど、そもそもひめちゃんが思っている「学び直し」にはどんな想いが込められているのかな?

ひめ:ん〜そうだな。そもそも「学び」というものはこどもたちだけのものではない、という想いが私の中にはある。

 「学び」って聞くと「あ〜学校でやっているものね」とか「塾でやっていること」とか。小学校から大学くらいまでってイメージがある人が多いんじゃないかなと思うんだけど、

 わたし的には「おとなにこそ学びが必要なのでは?」と思うところがある。

 わたし自身、年齢的には「おとな」といわれる。だけど、自分だって全然知らない世界もまだまだいっぱいある。

 知らないことがたくさんあるのに「おとな」だという年齢的なこと、見た目的なところで世界のすべてを知っているような感覚になりたくないなというのがある。

 だから「学び続けるひとでありたいです」。

 わたしだって知らないこともわからないこともあるから、教えることはできないけれど一緒に考えたり、悩んだりすることはできるよ、って、いつもこどもたちにもいっていて。

 「おとなだからこそ、無知を自覚する必要があるのでは?」と思っているって感じかな。

 歳を重ねれば重ねるほど、経験するものが増えたりするから、どうしてもはじめてのことに対して「ジャッジ」しちゃうというか、これってこういう感じだよね、って、実際、見たり聞いたりせずとも想像できちゃう。

 やってもないのに想像できちゃうから、これはこういう感じだよねって決めつけたり、だれかに自分の考えを押し付けようとしたり、行動をセーブしたり、思考が固まっちゃう状態にはなりたくない。

 できることならいつも「メタモン」でありたいと思っているんだけど(笑)

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メタモン。


ちず:メタモン!?(笑)

ひめ:そう、以前、キャラクターに例えるなら「メタモンに似ているね」っていわれたことがあるんですけど(笑)

 固まりきらない、というか変幻自在というか。いつもうようようよってしていて、見たものをコピーするポケモン。

ちず:おぉ〜〜だから「直し」っていうことばが入っているのか!

ひめ:おぉ〜? どこにちずちゃんは「直し」って感じ取ったんですか?

ちず:常に同じもの見ても新しい目で見れるように、っていうそんなニュアンスを感じとった。

ひめ:あぁ〜なるほどなるほど。
「学ぶ」じゃなくて「直している」、自分が一度学んだことを、常に更新・アップデートしているっていう感じなのかな。なるほどな〜

ちず:そうそう。

ひめ:わたしのよくないところだと思っているんですけれど、、なんていうのかな「人よりも知っていたい」というか、「知識の上で知らないことがあるのが嫌」みたいな気持ちがあって、

知らないことを知りたい欲がすごく強いから、だれかが自分の知らないことを知っていると、え、え、なにそれ?わたし知らないんだけど、知りたいんだけど!!!(焦り)というきもちになってしまう...。

 逆に、相手が知らないことを自分が知っていると安心したり、わたしってすごい!みたいな気持ちになっちゃったり...

 だから自戒を込めて、知ったかぶりしないとか、常に新鮮な気持ちでいよう!みたいなきもちで「メタモンでいたい」といっているのかも。おとなであることに傲慢にならないというか...常にぺーぺーでいたいかもしれない(笑)

 「おとなだから知っているでしょう?」みたいなのに「知ってます(ドヤっ)」っていうのはいやなんですよね。「知らないんで教えてもらってもいいですか?」って低姿勢でいたいと言うかな。

ヨシタケシンスケさんのファンです。
見方、考え方、捉え方、発想力が
すごく好きで、こんなオトナでありたいなと思う。


ちず:なるほど〜。
自戒も込めて、常に学ぶ姿勢でいたいんだね。
自分自身がそうありたいのと、周りに対しても常に学ぶ姿勢でいる大人が大事だよって思っている感じ?

ひめ:う〜ん。そうですね〜。
 まずは自分がそうありたい、が強いけれど、その思いに共感してくれる人たちが増えていったらうれしいかな、という思いはあるかも。

道は一本じゃなくてもいいんじゃないかな〜と思っていて。

 今は、だいぶ多様な価値観が認められるようになっていろんな生き方ができるようになってきたかなと思うけれど、大学卒業したら、就職して、結婚して、こどもができて、マイホームをたてて、老後は...みたいな。

 そういう、みんながあたりまえのように、とんとんと同じような人生を進めていくことが普通で、

 「え、わたしはこれでいいの?」と立ち止まる時間がなかったり、みんなと同じではない選択をしていると自分はダメなんじゃないか、という謎の焦りや不安が湧いてくる感覚があるのは、なんだかな〜と思う。
(まだ、この自分のきもちや状態にぴったりの名前がつけられていない…)

こういう多様なあり方・生き方をテーマにした作品や現状の
社会に対してモヤモヤに物申す!的なドラマが
多くの人から共感されて、ヒットしたりするのも
これまでになかったことだと思う。

いろんな生き方やあり方が認められてきたからこそ、
より一層、「自分はどうありたいの?」を問われる。
人生に答えはない、自分で選んでいくしかないからこそ、難しい。

 例えば、もっとこういう分野を開拓してみたい!(さっきの北欧を研究したいみたいなね。)

 そういうきもちになったときに「年齢」が邪魔をすることとか、そのときの自分の「立場」が邪魔をすることって、大人になればなるほどあるんじゃないかなと思っていて。

 たとえば、「もう、30だから。」とか、「自分にはこどもがいるから。」というか、言い訳っぽくみせない言い訳というか...

ちず:正当な理由にみえるよね。実はいいわけじゃない?っていう。

ひめ:そう。もし、自分がどうしてもやりたいことなんだったら、年齢とか家族がいるとか一旦置いておいて、真剣に、どうやったらそれが可能な形が取れるのかを考えて、プレゼンするなり、交渉するなり、試行錯誤すればいいなとわたしは思っている。

 「若くていいよね〜」とか「まだまだ、これからどんなこともできるよね、結婚してないし」って、言われるたびに、いつもなんだかもやっとする。

 相手はそんなつもりはないのかもしれないけれど...

 たしかにわたしは20代だし、結婚していないし、親が介護の必要な状況ではない。そのひとから見ると、縛るものがなくて自由に見えるのかもしれない。

 でも、わたしにはわたしの葛藤があるし、不安もある

外から見えている自分と、内側の自分がちがうのに、表面的な年齢だったり、立場だったり、環境だったりで、ジャッジされたり、あなたはできるけど、わたしはできないみたいな壁をつくられているような言われ方をするのがすごくイヤだった。直接は言えなかったけれど…

だから、もし、大人がいくらでもやり直せるシステムや環境や文化があったらおとなたちがもっと輝ける未来があるのかもしれないなと思っていて。

 そういうおとなをみていれば、おとなになるって楽しそうってこどもたちも自然に思えると思うんですよね。だから、わたしもそうありたい。

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この夏は、川でテントサウナを楽しんだ。
オトナたちが本気で遊ぶっていいな。
まず、オトナたちが思いっきり楽しむこと。
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「ないなら、つくっちゃおう」という発想が
このまちにはあふれている。
田舎だからこそ、ここだからこそをあえておもしろく楽しんじゃうきもち。
素敵だなと思う。
こどもたちが自分たちで企画した
まちのショッピングモールも、そのひとつ。


 でも、今、こどもたちと関わっていて、「おとなとこども、どっちがいい?」みたいな質問をすると、分かれるんですよね。おもしろいことに。

 「おとなになるってどういうイメージ?」って聞くと

 「お金稼げる」「自由」「ルールとかなさそう」みたいなものが出てきたりするんだけど、ネガティブなイメージとして、「働くってしんどそう」「大変そう」「大人だと責任が増えて自由がなくなりそう」。みたいな意見が出てきていた。

 「自由」に関しては逆のイメージとかも出てきて、おもしろいですよね。

 そういうイメージってどこからきているのか、っていうと、周りのおとなたちなんですよね。親がどうか、とか、先生がどうか、とか。

 そういうひとたちが人生を楽しそうに送れていない、歩んでいないのをみて、自分がおとなになりたいと思えるかっていったら、思いづらいですよね...

 そういう未来に対して希望を持てない。おとなになることにあこがれられない。生きていくのってしんどい。みたいなきもちになっちゃうのってそういうところにつながっちゃうのかなって。

 もちろん、それが一つの原因ではないと思うけれど。

 まずは、自分が満たされていてしあわせな状態であること。

 「半径5mのしあわせ」ということばを大事にしているんですけれど、自分を含めた手の伸ばせる範囲の大切な人たちが満たされていて、しあわせな状態をつくること。

 そしてそれをみんなが広げていったらとってもhappyな世界になるんじゃないか、と思っていて。

 もちろんそんなに簡単ではないと思うけれど、そういうちいさなところから自分で変えていけるという実感があることが大事というか。

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「しあわせ」を感じるってどんなときですか?と
聞かれたら、あなたはなんと答えますか?
例えば、わたしは、おいしい朝ごはんを
大切なひとと食べることのしあわせ。
シナモンロールを焼くこと。
発酵した生地がふわふわに成長したのをみるとうれしくなる。
オーブンからカルダモンやシナモンの香りがふわりとただようときは
しあわせなきもち。
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ダイスキな夜糧。
いろんな人たちが背景や肩書きを置いて、集い、
みんなでおいしいことを囲み、団欒することのしあわせとゆたかさ。
夜糧に行くようになって、
ステキなオトナたちに出会ったことで
歳を重ねるのが、ますます楽しみになった。
大好きで、あこがれるひとがたくさんいるっていいよね。
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季節を五感で感じられるくらしはしあわせ。
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年齢や立場を超えて集って楽しいことを企む時間は
しあわせ。
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最寄りの映画館まで2時間程かかっちゃう立地だけど、
お庭にタープをはって映画をみながら
みんなで焚き火カフェ。
楽しいも、好きも、みんなが集まれば
じぶんたちでつくれる。
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雨ラタミーティングはいつも
おいしいものを囲みながらおしゃべり。
この時間が好き。
自分の身近にあるちいさな好きやしあわせを知っていること。
そして、それらを味わうこと。


 最初に、北欧のところで幸福学に興味があるって話もしたと思うのですが、自分のしあわせを大事にしつつ、みんなのしあわせも許容できる、そんな社会ができていったらすごく素敵な世界だな〜と。

 理想論かもしれないけれど、本気でそういうふうに思っているところがある。

 広がっちゃったけど、おとなたちが何度もやり直せたり、失敗を恐れずに背中で語れる、そういうかっこいい大人が増えたらいいなと思っている。
 こどもよりもおとなが今、それが必要なんじゃないかな?って。

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こどもたちにはたくさんのあこがれのひとを
つくってほしいなぁとおもう。
いろんな見方・生き方・働き方に出会うことが
いつかの糧になることもあると思う。
オトナになるって、
生きるって楽しいよ。って
ちょっと先を歩いているわたしたちだからこそ
伝えられることもあるんじゃないかな〜。


ちず:
大人自身のありかたというか、何度もやり直したり学び続ける姿勢とか、そういう姿をみせていたら、必然的にその大人の周りにいるこどももふくめたみんながしあわせになれるし、

 それが広がって、そういうかっこいいおとなが増えていったら自ずとhappyな世界になっていく。それはすごく同感するというか、私もそう思っている。

ひめ:こどもたちに関わっていると、自分のありかたを問われるんですよね。
そういう場面がめちゃくちゃ多いな〜って思っていて。彼らはすごくおもしろいことに気づかせてくれるなと。それがこどもと関わるおもしろさなんですけど。

 ときにハッとするような問いをくれるんですよ。

「先生って、働いていて楽しいですか?」とか。その日、いろいろあって「働くってなんだろうな...」みたいになっていたタイミングだったから、「え、君は、わたしの心を読んだのかな?」みたいなきもちになった。(笑)察したのかな〜とか。

 こどもは想像を超えてきてくれる存在だから関わっていて面白いな〜と思うのかも。

 こどもたちに言う前に自分がそうあらねばいけないなと思うし、こどもたちと関わることでひととして自分がすごく成長させてもらっているな〜と思う。

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今回はここまでです。つづきは、次のnoteで。

次回は、「今、学びたいこと」をテーマにお話をしていきます。

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