児童相談所52日目。「子どもたちを”普通”にしたがる欲張りな社会」
これくらいの年齢なら、これくらいはできているだろう。
きっと僕たちは、4月〜翌年の3月までの一年の間に生まれた人たちと同じ学年になり、同じスピードで、同じだけの問題量で、そして同じタイミングで学年が変わってきた。その中で刷り込まれた”何年生ならこれくらいはできてるよね”という幻想。きっとそんな幻想に苦しめられている子どもたちもいるんじゃないかなって思う。
10人いたら10人分のスピードがある。進み方がある。育った環境がある。できていなくたってこれから少しずつできていけばいいし、できなくても他で才能を伸ばすことができるのならそれで十分なのに、日本社会は”普通の人”を作りたがるような気がする。
「あいさつくらいできていて当然」「社会に出た時に困らないように」
もちろんそれが”一般常識”なのかもしれないし、刷り込まれてきた”普通の人間”なのかもしれないけど、僕がみている目の前にいるその子は、僕にとっては十分すぎるくらいにしっかり1日を生きていると思う。それなのにそれ以上を求めるのなんて余計な気がした。
マズローの欲求5段階説じゃないけど、僕たちっていうのはそれなりに欲求が満たされていると新たな要求をする。大人は子どもたちに向かって、欲を出して”立派”をさせようとするんだけど、本当は生きているだけで十分だし、笑っているだけで十分だし、一生懸命毎日を生きているだけで十分なんだよね。
教育というのは、なぜにこうにも”同じ”を求めるのだろう。なぜこんなにも同じ答えに向かわせるのだろう。あの子にはあの子の、この子にはこの子の答えっぽいものがある、それぞれの歩き方やスピードもあるのに、同じタイミングで、同じようになにかを求めていく。そんなことを感じた今日。今日も同じ空間の中で違うことをしていたけど満たされた時間だった。笑っている姿をみるだけで十分だったんだよね。
子どもたちには時間をかけてゆっくり向き合うべきだと思っている。受け身の姿勢で、慌てずに待つことが大切だって思う。でも、時間をかけるなかで一瞬現れるチャンスは逃したくない。その一瞬のチャンスを共に掴むことができると、子どもたちは一気に行動変容を起こす。だからこそ、子どもたちの小さな発言や行動なんかはずっと観察するべきなんです。
たくさんの子どもたちと、これからも時間をかけながらチャンスを探していきたいって思う。それぞれの子どもたちに合わせたスピードと歩き方で。