児童相談所75日目。「余白の必要性」
事情は詳しくわからないけど兄妹でいたはずの場所は一人だけになっていて、今日はやけに静かな一時保護所。それでも時折保護児童の笑い声が響く。走り回る音も聞こえる。今日も元気だった。
人間って生きていれば精神的な浮き沈みが必ずあって、もちろんそれが激しくなく穏やかならよいのだけれど、たまたま沈んだ時になにかの出来事が重なると、まず自分を落ち着かせなければいけなくて、その状態の場合ここでの仕事には支障をきたす。
余裕のある視点を持てなかったり、行動や発言に苛立ちを感じてしまったり。だからここにいる先生をはじめとした“福祉の現場”にいる人は常日頃から精神的余裕を保っていないといけないけれど、僕にも時折そんな時がやってくる。
たまたまきちんと眠れなかった時や、心身疲労が溜まっている時とか、たまたま嫌な出来事があった時とか。
今日がまさにそんな感じで、保護児童が仕切りに言う「先生!」という連続した言葉に心を放棄したくなったのだけど、そんな時はその精神と向き合って自分をなだめる。なだめたあとじゃないと到底子どもたちと向き合えないからだ。
そう思うと、精神的余裕のないお父さんお母さんが子どもをひどく扱ってしまうことにも理解できるようになる。
虐待は悪。と端的に決めつけてしまうといろんなものが見えなくなってしまう。
今日もウォーリーを探した。あやとりで遊んだ。一つ一つクリアしながら今日も就寝の時間になった。
明日はもう少し精神的余裕を持って接したいって思う。
いつも読んでくださりありがとうございます。いろんなフィードバックがあって初めて自分と向き合える。自分を確認できる。 サポートしていただくことでさらに向き合えることができることに感謝です。