児相48,49日目。「虐待という言葉をみて」
前回の48回目も自宅待機だった。約1ヶ月ほど保護児童がいなくて僕たちの仕事もなかったけど、49回目の今日は久しぶりに子どもたちと保護所で夜を過ごす。
子どもたちがなぜここにやってくるのか。その理由をみてきたけど圧倒的に”虐待”が多いです。非行などの原因もあるけど、それも元の原因は親なんだよね。”虐待”って言葉だけを聞くとどうしても短絡的に「なんて親だ」って思ってしまうかもしれないけど、親も人間。余裕がなければなにをするかはわからない。そして次にこう言われる。
「だったら子ども産むなよ」
ごもっともな意見だ。けれどこれも決して簡単な問題じゃなくて心の叫びというのはさまざまな形となって問題になってしまうとても深い深い問題なんだと思う。僕たちはつい、自分自身の感覚で物事を見てしまいがちだ。それでも人間全員が一つの物事を同じように考えることはできないことも知っているはずで、例えばりんごを美味しいと思う人がいれば、不味く思う人もいる、アレルギーが出る人だっている。それと同じように、人の感覚や考え方、捉え方はバラバラでまとまりがなくて、だからこそ”虐待”を原因として子どもたちをここに来させてしまう理由も、探っていくと深い理由が隠されていたりする。状況が悪ければ人は無惨にも我を失う。
ミルグラムのアイヒマン実験で示されたように、人はいつでも自分の理性を超えてしまう可能性があるんだ。
アイヒマン実験:https://wired.jp/2017/05/26/milgram-experiment/
親が子どもにしてしまうことは、その子どもが親になったときにまた同じことを繰り返す確率が高い。負のループは続かないほうが良いのだけれど、このループをどこかのタイミングで止めて変えなければいけない。そのためにも、子どもたちとここで過ごす時間の中で”違う世界”をみせる必要があるし、疑問を抱いてもらう必要があると思っています。そしてまた、虐待をしてしまうプロセスを歩んだ親にも、なにかに気づいてほしいなと。
子育てに正解はないけれど、痛みや苦しみは誰だって嫌なはずです。誰だった愛されたいし、誰だって褒めてもらいたいし認めてもらいたい。温かい中に包まれたい。そう思うはずです。だからこそ僕たちにできること。それがなにかを問い続けたいのです。今日も子どもたちは元気で明るかった。それだけでよかったって思えるんです。