児相46,47日目。「窮屈な世界で寛容に向き合うこと」
今日で3回連続の自宅待機。保護児童がいないことは状況としてはとてもよいことだって思う。住んでいる地域の冬は寒いから、子どもたちが保護所ではなくて自宅などで暖かく過ごしてくれるのはなんだか嬉しく感じる。
児童相談所の夜間補助員として月に7日〜8日を保護所で寝泊まりするようになって8ヶ月、タイトルのように47回目になったんだけど、そのうち自宅待機になったのが今日を含めて4回。1日で退所になった子もいれば、2ヶ月以上入所していた子もいた。子どもによって家庭環境はバラバラだし、子どもたちもいろんな子どもがいて。でも、どの子も一生懸命生きようとしているのは確か。知識も経験もないなかで、心の中に思い浮かぶ答えのないモヤモヤっとした悩みとか不安とかと毎日向き合って戦ってた。
夜中に布団の中で泣いている子もいた。壁を殴る子もいれば、僕を叩くことで気持ちを表現する子もいた。とにかくたくさんの子どもたちと一緒に過ごしてきて僕もたくさんのことを子どもたちから学ばせてもらった。
最近は児童相談所だけじゃなくて不登校の子どもたちとも関わるようになりました。学校に行けなくたって、子どもたちは生きようとしてる。親との関わりがわからなくて、悩んで、学校での関わり方がわからなくて悩んで、そうやってたくさん悩んで生きることすら分からなくなってしまう子もたくさんいる。
そんな子どもたちに一体、僕たち”大人”と呼ばれるような人は、子どもたちに何ができるのだろうって思うんだけど、僕にはただただ子どもたちをありのまま受け止めることしかできないです。前にもあげた子どもたちとの8原則を頭に入れながら。
アクスライン、児童中心療法の8原則。
①子どもとの間にあたたかい友好的な関係をつくる
②子どものあるがままの姿を受容する ③受容的な感情をもつ ④子どもの感情を敏感に察知し、伝え返してあげる
⑤選択し、変化するかどうかの責任は子どもにあるということを尊重する
⑥非指示的な態度で臨む
⑦子どもの変化には長い時間を必要とするので、進行を急がない
⑧治療を現実の世界に関係づけておくのに必要最低限の制限のみ与える
社会を生きていると”お金稼いでなんぼ”の世界もよくみるし、もちろんある程度のお金がなければ生活することができない。お金がなければ子どもたちの支援もできないし、経済的余裕や精神的余裕がなければ、大きな気持ちで子どもたちと接することもできないという事実もある。
余裕は緩さをもたらすけど、コロナ禍でもあった世間では大人だって生きることは精一杯だと思う。それと同じように精一杯な子どもたちもいる。
社会の感情的な圧力で生きることが精一杯になってしまうのなら、社会がもっと寛容になったらいいなと思うし、行政の支援や民間の支援も温かくて大きなものだったらいいのにって思います。
物事に対して寛容な社会は、子どもたちや僕たち大人たちにだって必要なんじゃないかなって。何事もゆるさない窮屈な世界は、誰だって居心地が悪いはず。
今年ももう少しで終わるけど、あとどれくらいの子どもたちに会うのだろう。どこかで悩み苦しんでいる子どももいるんだろうなって思うけど、いつでも子どもたちと大きく接することができるように、僕は僕でいつでも心に余白を残しておきたい。
自分を許して、他人をも許して。いつでも子どもたちと笑顔で会えるように。