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#113 呪術的思考「雨乞い」

文化人類学者である、磯野真穂さんの本を読んだ。

この2冊。とても勉強になった。


さまざまな学びがあったのだが、特になるほどな、と思ったところをご紹介させていただきたい。

「コロナ禍と出会い直す」 補論4 より 

”緊急事態宣言は雨乞いに似ている”
スーダン南部に住む、ディンカ人のお話。そこでは、雨季が近づいた時に、雨乞いが行われるのだそう。では、なぜそれをするのだろう。
ディンカは、雨季が定期的にやってくることをよく知っている。だからこそ、雨季が近いタイミングで雨乞いを行う。なぜならそうすることで、雨季のリズムと自分たちの心のリズムが同調し、雨乞いが降雨に影響したと感じられるようになるからだ。
もちろん、感染者にはピークがあることは誰もが知っている。つまり、感染のピークで緊急事態宣言を出せばよい。 そうすれば、緊急事態宣言のおかげで感染者が減ったように感じることができる。

たしかに!! そうも考えることができるのか。

当時の専門家がどう考えていたかはわからないが、それで十分だったんだ。「一応」の話にもつながるが、為政者や専門家は、何かしている、という体を作り、さらにはそれが少しでも意味がありそうな雰囲気さえ作れればそれでよかったのだ。

「医療者が語る答えなき世界」 第3章 手術と呪術 より

清潔領域を守るためのタブーが随所に張り巡らされた手術室であるが、細かく見ていくとその根拠はあやふやである。その境界にはしばしば根拠がない。「そう決めたからそうなのだ」としか言いようがないような数々のルールなのだ。それは、科学ではなく、呪術の観点からみたほうがすっきりした説明がつく。「きっと勝つ」と「キットカット」の関係。お見舞いに鉢植えが避けられること。4のつく病室がないこと。汚い人が少しでも触れると、きれいな人は一気に汚くなる。それはひいては手術の失敗につながるかもしれない。逆に、それをしなければきれいな人の清潔は保たれ、手術の成功にもつながるはずだ。そんな呪術的思考が、手術室にも顔を出している。

そうそう!確かにそうかもしれない。うんちを踏んだ小学生が、一気に汚染されるわけではない。もちろん、その子はきれいなはずだ。なのに、こっち来るな!と言って騒ぎ立てる光景が目に浮かぶ。それと一緒だ。

さまざまな準備をしても、確実な未来は保障されない。感染対策をいくらしても、感染者が減ることはない。でもなんとか望む未来を引き寄せたい。そんな思いから、(既に呪術の一つといってもよいであろう)マスク装着にもつながるのかもしれない。「一応」の裏には、人間の古来からの呪術的思考が表れているのかもしれない。

医療者は狭い世界に生きている。病院という閉鎖空間。その中で、科学的なことをしているという錯覚に陥っている。にも拘わらず、外の世界をあまり知らない状態で、言葉を発信してしまう。それが呪術的思考の一つだともちろん気づかずに。

コロナ災害で残念な思いをすることもたくさんあったのだが、こうした学びの機会があったことは、自分の今後の財産。ぜひ、磯野真穂さんの著書、手に取ってみていただきたい。