◆小説◆ おばあちゃんの喫茶店10「中央値と平均値」
おばあちゃん「お花を見に行ってきたのよ、新宿に。この前」
このは「へえ」
お店の営業が終わり、おばあちゃんとこのはは洗い物や片付け物をしている。
テーブル席のひとつでは、はなびが教科書とノートを広げて塾の宿題をしているようだ。
このは「あれだよね、なんだっけ、有名なフラワーアレンジメントの」
おばあちゃん「そうそうそうそう、栗屋崎さん。素敵だったわぁー。すごい笑顔が素敵で、人当たりよくて」
このは「花は?」
おばあちゃん「花も良かったわよぉー、そりゃ。
でもやっぱり都会に行くと疲れるわね。明日休みじゃないと行けたもんじゃないわ。
急にカレーの仕込みが入ったりしたら、もう絶対無理。
食材揃えて、たまねぎ、たまねぎ、たまねぎ、切るの、たまねぎ」
このは「おばあちゃんしっかりして! 大丈夫! 今日はカレー仕込みじゃないよ!」
おばあちゃん「はぁっ、はぁっ、はぁっ、大丈夫、大丈夫……」
はなび「トラウマになってんじゃん」
おばあちゃん「はぁ……新宿で。そう、新宿。
久しぶりだったんだけど、その、ホームレスの方が増えてるような。
高島屋のところ、いっぱいいたの。若い方もいたわ」
このは「あぁー。コロナだからっていうのもあるのかな」
おばあちゃん「おばあちゃん、なんだか胸が苦しくなっちゃって。
そのせいで疲れたのかな。何もしてあげられないし、いたたまれない気持ちになるの」
はなび「俺も嫌い。日本の恥だよ。なんで働かないのかな。真面目に働かないから貧乏になっちゃうんじゃん」
このは「はなび、それは違うと思う」
はなび「え? 自業自得じゃん?」
おばあちゃん「コロナだからねぇ……」
このは「それもあるし、なんだろ……お仕事がいきなりなくなっちゃうと、お家賃が払えなくなっちゃう。
お家賃が払えなくなると、住むところがなくなっちゃう。
住むところがなくなると、新しい仕事も見つけられなくなっちゃう」
はなび「そうなの? でも自業自得じゃね。実力があれば仕事がなくなったりしないだろ」
このは「うーん、その人自身の問題って場合もあるけど、必ずしもそうでもないみたいなんだよね。
なんだっけな、年収の中央値が、20年くらい前と比べて100万円下がってるらしい」
はなび「中央値? 平均?」
このは「平均じゃなくて……平均は知らないけど、もうちょっと高いみたい。お金持ちが増えて貧乏な人も増えたから、平均よりも中央値の方が低くなるんだって」
はなび「え? どゆこと?」
このは「だからぁ、えーーーっと。おばあちゃん、わかる?」
おばあちゃん「中央値っていうのは、ほら、ちょうど真ん中の人ってことよ」
はなび「だから、平均だろ」
このは「ちがくて。ちょっと計算してみ」
このはは洗い物を中断し、濡れた手を拭いてからはなびのテーブルへと向かった。
シャーペンを借りると、ノートの余白に書き込んでいく。
このは「例えば、これどう?」
『年収1000万円の人、年収500万円の人、年収100万円の人がいます。この3人の年収の平均と、中央値を求めなさい』
はなびはちょっと考えてから、シャーペンを受け取って解き始めた。
はなび「1000+500+100÷3だろ。あ、足し算はカッコしないとだ。
(1000+500+100)÷3=1600÷3で、533.333……以下略。かな?
で、万円を足して、平均年収は533.33……万円」
このは「たぶん正解」
はなび「たぶん!?」
このは「だって今適当に作った問題だし、答え知らないよ。でもたぶん合ってそう」
はなび「で、中央値は?」
このは「中央値は500万円」
はなび「は? なんで?」
このは「ちょうど真ん中の人の年収が中央値なの。
これを日本人全員で順位付けしてやって、ちょうど真ん中の人の年収が中央値ってこと。だから、平均と必ず一致するわけじゃない」
はなび「平均でいいじゃん、めんどくせえな」
このは「お金持ちと貧乏な人が増えると、平均はそんなに変わらないのに生活に困る人は増えちゃうんだよ。例えば」
『A:年収1000万円が10人、年収500万円が10人、年収100万円が10人
B:年収1000万円が5人、年収500万円が20人、年収100万円が5人
A、B、2つの集団のそれぞれの平均年収と中央値を求めなさい。
また、年収100万円以下は生活に困ってる人とします。
A、B、2つの集団で、それぞれ生活に困ってる人の人数を答えなさい』
はなび「オレまだ宿題終わってないんだけど」
このは「じゃああたしが解くわ。何このマッチポンプ」
Aの平均年収:(1000×10+500×10+100×10)÷30人=16000÷30=533.333…
Aの平均年収は533.333…万円
Aの中央値は500万円
Aの生活に困ってる人は10人
Bの平均年収:(1000×5+500×20+100×5)÷30人=15500÷30=516.666…
Bの平均年収は516.666…万円
Bの中央値は500万円
Bの生活に困ってる人は5人
はなび「あれ? おかしくね? ぜってぇー変だ」
このは「なに? 間違ってた?」
はなび「間違ってるよ絶対」
このは「えぇー、マジか」
はなび「だっておかしいもん」
はなびは同じように解き始める。
何度か解き直し、眉をしかめて頭を抱える。
はなび「えっ? 合ってる? なんで?」
このは「合ってた? よかった!」
はなび「いや、多分合ってる……。おっかしいなぁ……。
だって、Aの方が平均年収高いのに、生活に困ってる人が多い」
このは「そう、それ」
はなび「どゆこと?」
このは「なんだろう、あたしもよくわかんないけど、平均年収の高さと貧困層の人数は必ずしも相関しないっていうか……。
例えお金持ちが増えて平均年収が上がっても、貧しい人が増えたら不幸な人も増えてるってことだし。経済格差が広がるっていうのはたぶんそういうこと。あたしはそういう世の中、いい方向に向かってるとは思えないなぁ」
はなび「中央値の方が正しいっていう根拠は?」
このは「知らん。ただ、20年くらい前より中央値が100万円下がってるっていうのは、全体的に貧しい人が増えてるってことだとは思う。
だって、国民の半数が中央値より下の年収ってことでしょ。その中央値が100万円下がってるんだよ?」
はなび「わかったような、わからんような」
このは「要するに、全体的に貧しい人が増えてるので、これは社会的な問題。個人の自業自得ってこともあるけど、それ以外の影響も必ずある」
はなび「どんなに社会がおかしくても、真面目に頑張ってるやつは大丈夫だと思うけどな」
このは「あー、もう、うぜぇーーーっ!」
はなび「はーい、ムッキーしないでくださーい」
このは「むっきぃー!」
片付け物をすませたおばあちゃんが、二人のところへやってくる。
おばあちゃん「おばあちゃんね。二人には申し訳ないなって思ってることがあって。
今このはが言ってたけど、たぶん、20年前、30年前、このはやはなびが生まれる前に比べて、ちょっとずつ社会が貧しくなってる感じがするの。
しかもまだ、ずうっとちょっとずつ貧しくなり続けてる。
こういう世の中にしたのは、おばあちゃんたち大人のせいだなって。
どうしてもっといい世の中にして、このはやはなびに渡してあげられなかったのかなって、それがとっても申し訳ないのよ」
このは「おばあちゃん……」
はなび「関係ねーし。社会がどうなろうと、オレはオレの好きなように生きるし。社会が貧しいからって、なんでオレまで不幸みたいに言われなきゃいけないんだよ。
オレ、今だって割と幸せだよ?
おばあちゃんと姉ちゃんがいるし、別に食うことに困るわけでもねーし。
お母さんとお父さんだってさぁ……。だいたい、オレと姉ちゃんは幸せにならなきゃダメなんだぞ? お母さんとお父さんの人生、なんだったってことになっちゃうじゃん。意味なくなっちゃうじゃん」
はなびは顔を赤くして、すんっと強く鼻をすすった。
がたんと椅子から立ち上がると、逃げるように居住スペースへと消えて行く。トントントン、と階段を駆け上がっていく音。
このは「なにあいつ泣いてたし」
おばあちゃん「はなび、あの子……」
このははスマホを取り出して操作し始める。
このは「よぉーし、さなえ呼んで突撃だぁー!」
おばあちゃん「よしたげてさすがに!」
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