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確かなこと


1974年12月20日生まれの46歳。
もうすぐ47歳を迎えます。

母は数年前癌との闘病の末、父は今年突然逝ってしまいました。

親を失うということは物凄く大切な財産を失うということでもあります。

それは、ただ、愛する親だからということではなく
僕のことを一番知る人を無くしてしまうということです。

僕には子供が三人いて、一番下はまだ3歳に満たない男の子。
上二人が連れ後なので、この歳で初めて一からの子育てをしています。

子育てをしているといろんな問題にぶつかります。

そしてそういう場合、自分はどうだったのか? そしてどう対処したのか?

そういったことを自分の両親に聞くことが多いと思います。

しかし、残念ながら、僕のような環境になると、それを実行することができません。
まさに死人に口なしです。

当たり前のことを書いてるようですが、では果たして皆さん、自分の記憶のない、自分の幼少期のことを事細かく把握しているでしょうか?

答えはほとんどの人が

NO!

だと思います。
現在の自分のことならいざ知らず、自分が一番知りたい自分の記憶がまだ定かでない時期のことをほとんど知らないんです。

それはもう、他に誰も聞くことは不可能あり、まるで歴史を調べるように憶測でしかわからない、近くて一番把握していないことなんですよね。

その不幸はいきなり降りかかってきます。
それは本当にランダムに、何の予兆も無く。

何が言いたいかというと

今目の前にいる大事な人は、明日も当たり前に目の前にいる保証はどこにもないということ。

それは何も親に限ったことでも、生死によることだけではありません。

今家族である大事な人が突然明日から他人になるのが人の関係であるということ。

その両方に言えるのが

その時その人たちが何を思って、何を考えているか。
そういう毎日の一つ一つを大事にして毎日の会話を実行している人がそれほどいるのでしょう?

それを薄っすらわかっていながら、それでも人はそれをおざなりにする。

そして後悔をし、失ってしまったその大事な何かを考え続けることになる。

あんなに元気だったのに、あんなに笑っていたのに、その表面から見えるものでは想像もできない現状や想いを知る方法はたった一つ。
普段からのコミュニケーション。

自分の物差しで人を図らず、自分の価値観で人を判断することなく
そして、今いつでも聞けることは、明日には一生どんな手を使っても
聞けなくなるかもしれない。
そう思って生きていくべきだと思います。

想ったことは言うべきです、たとえそれがどんなことだろうと。

そして衝動は書き記すべきです。

自分でさえ明日忘れてしまう、そんな理不尽で不完全な心を持つのが人。

人を知り、自分を知るために。

自分というものを形に残すために

僕はnoteを始めました。


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