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「二トラム/NITRAM」

「二トラム」という映画を見たことがあるだろうか。


作品の紹介画像がロン毛のサーファーっぽい人だったので、水着のパーリーピーポーが登場するチャラい内容かと油断してしていたら、とんでもなく「重い」話だった。


「え、これ演技だよね?」


と確認するくらいにリアルな演技、そして、「救い」のない破滅的なストーリー。


なんとこの映画、実話なのだという。


作品紹介から引用すると、
『1996年、オーストラリアのタスマニア島で実際に起きた「ポート・アーサー事件」という、死者35人負傷者15人に及ぶ無差別銃乱射事件を、その犯人がいかにして犯行に及んだのか、その過程を描いた映画(2021年)』である。


事件当時、「遺伝性」がこれほど人の個性に影響を与えているという事実は一般的には認識されていなかった。(現在でも知らない人が多いが)遺伝的傾向のため、二トラムは育てづらい子どもだったのだろう。その結果母親からは拒絶され、周囲からは差別を受け、さらに理解者だった人がことごとく亡くなってしまうことによって、二トラムの人生の歯車が暴力的に狂っていく。


犯罪傾向は、遺伝と環境の交互作用である。

つまり、何らかの素質を持っている人(IQが低い、衝動的、セロトニンやモノアミンオキシダーゼ酵素の遺伝子が特定のタイプなど)が悪い環境(虐待やストレスの多い環境に置かれるなど)にいる場合、環境の影響を特に強く受けて犯罪を犯しやすくなることが、現在では知られるようなった。


「二トラム」は、「凄惨な事件」の真相を描いた作品というより、「発達障害」をかかえる主人公の人生を描いた作品、という見せ方をしている。
「二トラム」は、その点において異質であり、完全に客層を選ぶ映画にしている。見る人が見れば作り手の気骨が伝わるが、そうでない人が見れば、ただの「きちがい」映画であり、後味の悪さしか感じれないだろう。


その点で、「二トラム」はものすごい作品なのである。


何らかの障害を抱えた主人公を取り巻く人間関係を描く作品、
人間の中のある才能(もしくは障害)と戦って、やがて克服するという物語は数多い。
特に「レインマン」「フォレストガンプ」「アイアムサム」などは発達障害をかかえる主人公の物語といってよいだろう。
「ビューティフルマインド」や「ソーシャル・ネットワーク」あたりを含んでもいいかもしれない。

通常、この手の作品の多くはポジティブに描かれる。つまり、発達障害に「光」を当てた作品と言えるだろう。

私たち、すべての人がスペクトラムのグラデーションの中に存在し、レイモンドやガンプ、あるいは二トラムのような因子を多かれ少なかれ持っていて、誰もがそれぞれに「生きづらさ」のようなものを抱えて生きている。

言いかえれば、
私たちは生まれた時点で、自分ではどうしようもない知的個人差(IQは70%以上が遺伝、学力は50%程度が遺伝、そして30%程度の家庭環境差)があるにもかかわらず、すぐに、知的能力という「正規分布」のゲージの中に放り投げられて、社会経済的地位(Socio Economic Status)という偏差値を競争させられている「マウス」のようなものなのだ。

現代は、かつては天才やエリート層にしか求められなかった「賢さ」、つまり知的能力が、あらゆる人に要求されるようになった時代といえる。



誰もが学べるようになったいま、その能力の個人差に遺伝の差がはっきりと表れるようになってしまった。



そのため、私たちは世界のほとんどの人と、「お金を稼ぐ能力」が低いとか、あるいはそれを失うという「恐怖」を共有できてしまう。
だから、たとえ障害があっても、それを理解してくれる人たちの「無償の愛」という支えで「お金を稼ぐ能力」を導出できれば、差別を乗り越えて称賛されてしまうのである。

先述の映画たちが売れたのは、その証左ではないか。


ところが、「二トラム」はそういった嘘くさい「前向き」を完全に否定して見せた。


そもそも、「二トラム」が異質だと感じることこそ、異常なのである。


この作品が批判しているのは、私たち「人間の生き方」そのものであり、産業革命以降に作り上げた資本主義経済のルールによって、「社会経済的地位」がすべての人間的価値を決定するという価値観そのものなのである。





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