両手に包んで伝えたい

先日、長い長い自己紹介シリーズを書き始めた。
私は書くことが好きだと思う。
なぜ書くことが好きなのか。
その理由は、話すと気づく。

私は反射だと、本当の気持ちとは違うことを言ってしまったりする。


例えば、何気なくAについて質問された時。
その瞬間、右手には好きなところが、左手には好きじゃないところが。2つの気持ちが浮かんだりする。


そしてなぜだか本当は好きなものほど、天邪鬼な、素直じゃない自分が顔を出してきたりして。左手の好きじゃない部分が持ち上がり、喉から出て言葉にしてしまったりする。


そう言いたかったんじゃないのになあ。
話が終わって一人になって、後悔することが結構ある。それが結構苦しいし、自分をきらいになりそうになる。

でも、書き言葉は言葉にしながら俯瞰して、適した表現にしていくことができる。


私が自信を持って人に話せることや、人が私に対して面白いと言ってくれる場面を振り返ると、それは「一人で味わい / これってなんなんだろうと考え / 一度文章にしたことたち」。
一度文章にしてしまえば、結論を出せば、頭のどこかの引き出しに確実にストックされる。私にとって文章は持ち手のカードみたい。


そして最近、更に気づいたのは「持ち手のカード」として使い続けてしまうのは、よくないということ。


そっとした気づきだった新鮮さはその瞬間のもので、過去のその地点や視点はその時のもので。

今の私が「一度、あの気づきを経験できたんだから」と利用しようとすると、とたんに錆びた色に変わっていく。
繰り返し話すことで執着になって。
そうした借りてきた言葉は、自分自身違和感を感じてしまう。

話し言葉にも書き言葉にも不自由を覚えてむず痒さを感じていた頃から見ると、少しは自分を表現する幅は広がっているけれど、自分で身につけた鎧やおまじないや強めの言葉で言うなら呪いは、時間が経つにつれて自分が歩むにつれて、固くなり殻になり破らなきゃ自分が窮屈になる。


だから次の目指す私のバージョンは、その場で感じたことをゆっくりでも、おぼろげでも、全てを伝えれなくてもいい、人の目を気にしなくてもいい。


右手と左手に気持ちを抱えたときに、本当に両手に包んで大切にしたい気持ちを見つめて、それをひらいて目の前の人に見せれる人になりたい。


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