転んだ経験に、ありがとうってなった話
自分が怪我をしたとき
気を遣わせてしまうことを申し訳なく感じて
人がいつも通りでいてくれることがありがたいという発見。
それに気づくために、あの時転んだのかな。
ということがありました。
心を怪我したときもそうかな。
大切な人がそうなったとき
ただいつも通りの、今の自分で側にいれたら。
そう思ったら
その時できた傷も経験にも、「ありがと」ってなった。
そんな記録を書いてみます。
その時の状況は仕事絡みの旅で
巡りたい場所やスケジュールがあったから、タイムロスが発生してしまったことにも申し訳なさや焦りを感じていた。
その時の感情を深掘ると、「自分の不注意な姿勢で信用をなくしたかもしれない」とか、「心配してくれている言葉の裏に面倒くさいと思われていないか不安」だったなあ。
その場ではそうゆう考えがよぎりつつ、でもそれから自分にできることをするしかないと切り替えて消毒とか自分でできるケアをしてみんなのいる場に戻った。
後から落ち着いてその場にいたみんなと改めて話すと
私のまわり回った不安は杞憂で、旅は色々起こるもんだよと言ってくれて、それが本当の言葉だと感じたのでほっとした。
本質を大切にしている方たちだったので、私が感じた不安は逆に失礼だったなと感じた。
でも、そんなことがあったお陰でできた話もあったし、たくさん声をかけてくれた愛情深い一面や、懐の深い一面を知ってもっと人として好きになったし、結果より思い出深い旅になったのでした。
(でもはしゃぎすぎてこうゆう状況になったので、それは今後気をつけるぞ...!)
一時期、人の深いところに踏み込むのを止めていた時期もあったけれど、やっぱりお互いが話さないと人の本当の気持ちはわからない、
「もう在る」のに、自分の過去の出来事のバイアスがかかった思い込みによって受け取れていない、気づいていないものがあったりするよなあ。
少し前は、人と会ったときに「最近どう?」みたいな話題になるけれど、その時の正直な調子を言えなかったりした。
個人で仕事をし始めてからはなおさら。
「元気に振舞っていなきゃ、来る仕事もこないだろう」と無意識に思っていたし、悩みを相談したいわけではなかったから。その表現の仕方がわからなくて、少しカラ元気をしていた。
(Twitterで、ポケモンのキャラがナマケロ→ヤルキモノ→ケッキングに進化する過程で、なんで間やる気出したんだよ...ってコメントがあったけど、私にはわかる気がしたよ...笑)
3月はそんな感じでがんばりすぎて、4月にその反動と、そう演じていた自分に気がついた。でも悪いことじゃなくて、気がついたらまた調整していけるのだ。
身体でも、心でも
傷を誰かに見られたとき、見せたとき、調子がよくないとき
人に気にかけられすぎたり、働きかけられすぎるのは時にプレッシャーになったりする。
この気づきがあった時、ある友達のことが気になっていて。
私も「何か力になれないかな」って形の意識をしていた。
でもそれもプレッシャーになる可能性もあるよなって、転んだとき思った。
そしてそんなとき「いつも通りでいてくれるのがありがたい」と気づいたので、これからは
あるんだねって認めた上で、自分は自分の内側を表現をする。
その相手の「ある」ものに対して働きかけるのではなく
自分の今「ある」を開く。
「そうなんだね」って相手の今を認めた上で、
自分は、ただ今の自分で「あのね」って
何気ないことを開いて話して側に居れたらいいなって。
そう思ったらその時できた傷も経験にも「ありがと」ってなったのでした。
そしてその時の傷は、毎日レモンを食べていたら爆速で治っていってて、傷もほぼ薄くなってきた。笑 レモン、すごいね。
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