![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46775019/rectangle_large_type_2_59d3cddd2135265f81c63f84e7a6485b.jpg?width=1200)
ピーター・ドイグ展に行ってきた日記
(この記事は消してしまったアカウントで2020年8月末頃に書いた記事です。時季外れで申し訳ありません。)
先日、東京国立近代美術館で行われているピーター・ドイグ展へ行ってきた。とてもよかった。
日本の夏スーパーハードモードを主張するかのように、その日の最高気温は36度だった。体温と同じくらいの外気が肌を親の仇のように焦がしていた。
有史以来感じたことのない暑さの中だと本能が拒否でもするのか、人の判断力は低下するように思える。実際、影が墨塗りのように濃い千代田区をどのように歩いていたかの記憶があんまりない。お濠の中の水がびっしりと苔のようなものに覆われていて、立てそうなほどであったことしか記憶がない。あんな暑い中、私はどのように生存していたのか。
そして、ピーター・ドイグ展の展示も同じように私の記憶の中では不定形で曖昧な形をとっているのである。
別に東京国立近代美術館の館内がはちゃめちゃに暑かったわけではない。美術館が熱かったら大問題である。
そうではなくて、展示してある絵画たちのもつ雰囲気が幻想的であったのだ。
東京国立近代美術館はショールームのように清潔感があって、木のつくりが美しい。入った瞬間に気後れしながらも例のごとく音声ガイドを借りて、足を踏み入れる。
最初のブースに展示されている数枚の湖の絵画らに目を惹かれた。
『天の川』
『エコー湖』
『カヌー湖』
画面の上部が向こう岸で、下部が湖である。どの絵も私の背より高く、横幅があった。
これらの絵を始めて見たとき、自分がどこにいるのかわからなくなった。
幾重にも色の重ねられた水面と、しっかりとした遠近感があるわけでもないのに確かに境界をもってそこにある岸部。生えている植物は風に揺られ、波紋の広がる音さえ聞こえてきそうな静寂。天の川もボートに浮かぶ女性も、一人立つ男性もみたことがないのに、どこかで記憶の片鱗に残っているような構図だった。
私は、その絵の中に実際に入りこんでいるような錯覚を覚えたのである。
自分がどこにいるのかわからなくなったというのは、自分が今どんな目線で風景を眺めているのかがわからないからに他ならない。ええい、ないが多い文章だ。
人物や植物の大きさからして、「見ている私」は割と近くにいるのだろう。しかし湖の直径は大きそうだから反対側の岸辺に立っているということはあまり考えられない。ということは、「私」は湖の上に浮かんでいて彼らを眺めているのだろうか。暗い、ひっそりとした水面に、私は確かにそこにいる。しかし、どこにいるのかがわからない。
ここは東京の竹橋で、絵が飾ってあるのは壁で、足が接しているのは東京国立近代美術館のフローリングである。しかし、見つめれば見つめるほど私は絵の中にいるような気がするのである。
水が揺れて、夜の空気の匂いがしてくるような、なんとも不思議な感じがした絵画たちであった。
同じブースにあった『スキージャケット』。音声ガイドには、雪山の白さの表現を工夫したという説明があった。ピンクや水色の絵具で覆われた雪山は、今年、帰り道に振り向いたスキー場が反射している眩しさを思い出した。白さが光に照らされてオーロラに輝く記憶が喚起され、嬉しくなった。
『オーリン MK Ⅳ パート2』では、友人らしき人物がハイジャンプをしている様子を、通りがかった私も一緒に眺めたようだった。画面の中の少年少女たちと同じように口をあけ、驚いた。
上記の絵の『ペリカン』では、作者が実際に見た風景を描いたものらしい。水辺にいる年を召した男が片手にペリカンを掴んで、語り掛けてきたらしい。怖い。
この絵の前に立つと「あ、目があってしまった」と思った。
普通に歩いていて、全然知らない人と目が合うと気まずい。それが少し様子のおかしそうな人だったらなおさらだ。この絵は、夜の水辺で、そんな「あ、」という気持ちを浮かびあがらせる絵だと感じた。
上の絵は『スピアフィッシング』。これも作者の体験談に基づいているらしい。さっきから体験がすごい。一体どこに住んでるんだ。
夜にボートに乗ったときの、暗くて周りがよく見えないがための浮遊感。通りがかったボートに気づいて、ふと顔を上げる。そこには布を纏った女性が座っていて、全身水着で覆われた人物がこっちを見ている……。確かに脳裏に焼き付くだろう。
見ているだけの、夜にボートに乗ったことなんかない私に水面の振動が伝わってくる。2人の人物を視線の中に入れた途端、見てしまったという恐怖心を含んだ後悔の感情をもつ。と共にあまりに異様な空気感になぜかこみあげてくる少量の愉快感があった。
作者の記憶を追体験しているような、不思議な絵だった。
『ラペイルーズの壁』である。私はこの絵が特に好きだ。
画面を認識してまず飛び込んでくるのは、空の色である。暑い、旅先の空の色だと思った。
様々な色が重ねられたこの絵の薄水色は、現実の空のように複雑な色味をしている。それなのに鮮やかなこの色は、どこか非現実味を帯びていた。実際に見ているのに、作られたセットみたいな。知らない土地の、自分とは全く関わりのない場所を歩いているときの恐怖心に似ている気がする。違和感といってもいい。
深く、刻み付けるように描かれた濃い影は強い日差しを想定させた。絵の中の気温がわかる。暑いな、と思った。
この絵は、「どこかで見たことのある」夏の景色だと思った。スペインの風景なので、行ったことは決してない。しかし、体験したことがある気がする。暑すぎる土地で、わくわくしていたら熱を帯びたコンクリートに出会う。壁沿いに歩く。見たことのあるような一場面だ。中心で傘をもっている人物も、すれ違ったことのあるような人に感じる。
この絵でも、私は絵の中に立っているような気がした。
『ガストホーフ・ツァ・ムルデンタールシュペレ』。本展覧会の看板となっている絵である。看板となっているだけあって、この絵の前にはたくさんの人がいた。
柵の前に見慣れない人物が立っていて、奥には通路が続いている。その先にはなにがあるかわからない。空はオーロラで覆われていて、湖は静寂を持ち、目の前の草原は風を浴びている。ステンドグラスのような装飾が目を惹く、なんとも美しい絵である。
幻想的という形容がふさわしいように思える。しかし、またここでも私は絵の中にいるような感じがした。見ているだけで服がなびいて、半そでのシャツからでた腕が肌寒さを覚えた。きれいなのに、一歩も踏み出せない感覚があった。奥にいる2人の人物がまた未知を強調している。ここはどこなのか。先にはなにがあるのか。なにもわからず、ただ周りの景色が美しいということしかわからない。
芸術をなにか別の物に例えるのは大変気が引けるが、絵の前に立った私の感覚を例えるなら、『千と千尋の神隠し』だ。
あの映画の冒頭では、人気のない繁華街がでてくる。どういう場所なのかもわからず、なにが襲ってくるわけでもないのに不気味な繁華街。そこで、自分の話を聞く耳をもたない両親が狂ってしまったかのように飯を食べる。
あのシーンは思い出すだけで叫び出したくなるような、ぞわぞわとした感触に襲われる。町並みは懐かしさがあり、雲一つなく晴れているにも関わらず。
そんな、一歩間違えば自分もそちら側の世界に行ってしまうのではないか。まるで隣の席に座っているように身近なのに、現実味がない。ただどうなるのかわからない、未知の恐怖という、本能に訴えかけるような感情が支配しているような絵であった。
ピーター・ドイグ展の絵は、「そこにいる」という感触が強かった。絵の前に立つだけで、湖にいて、草原に立って、夜の中を歩いている感覚になった。それは多分、景色自体は誰もが体験したことのあるテーマだからと思う。湖しかり、夜しかり、草原しかり。
だからこそ、精巧に書かれた風景を見て勝手に脳が紐づけを行い、全身がコーティングされたかのような現実感を帯びるのだろう。しかし、色使いは幻想的で、構図のテーマは未知のものである。体験したことがありそうなのに、全くない。ここに混乱が生まれる。非現実的な不安定感がそこにはあった。作者の力だろう。起きた瞬間は確かに覚えていた夢のような絵であった。
絵と絵の間に間隔をあけて、物語を見るように展示してある、と音声ガイドは言っていた。空間の工夫によって、見るペースに区切りが生まれる。それも絵に没入するのに一役かっているのだろう。
その他にも、映画をモチーフにした絵や人物、動物の絵もあった。展示してあるのは、絵画作品32点とポスターが40点らしい。確かに多いとは言えないが十分に見ごたえがあった。
夢の中を歩いてきたような非現実感と、没入感と、綺麗な色使い。絵を見てきたというより、知らない町で歩いてきたような体感。
ピーター・ドイグ展、とてもよかった。