マルチン・ルター
イエス・キリストは結婚していなし、従って、家庭を持つことができなかったので、家庭の在り方について明確に語る機会もなかったと思われる。それでも、聖書を読むと、旧約聖書のモーセの十戒を見るとき、ヒントになる具体的な戒めがある。
宗教改革者のルターが書いた「マルチン・ルターの小教理問答書」は、「十戒について」「使徒信条について」「主の祈りについて」「洗礼について」「罪の告白について」「聖餐式について」「朝と夕べの祈り」などの主題を掲げ、分かりやすく平易に解説している。
特に、十戒の説明の中で、第四の戒め、第六の戒め、第十の戒めが、家庭の在り方に大きな影響を及ぼす内容を記述している。
その内容は、第四戒が「父母を敬うこと」、第六戒が「姦淫をしてはいけないこと」、第十戒が「隣人のもの(隣人の妻など)を欲しがってはいけないこと」を記し、波風の立たない夫婦として、立派な愛の家庭を作るための倫理観が示されている。
モーセの十戒は、第一戒から第四戒までが「神と人間の関係」を中心に見た倫理観、第五戒から第十戒までが「人間と人間の関係」を中心に見た倫理観であると言われる。
すなわち、縦軸は、神と人間の関係(父母と子供の関係=親子関係も含む)、横軸は人間と人間の関係を信仰規定、倫理規定として述べているわけだ。従って、モーセの第四戒は縦軸、第六戒と第十戒は横軸となる。
第四戒の「父母を敬え」は、神と人間の関係が、家庭の中においては、父母と子供たちの関係として投影されることを表している。
本来、理想の父母は子供たちの前に「神」の代理として立つ役割を持っていることを意味する。子どもが神を知るのは、父母を通してであるということである。父母を敬うのは神を敬うことと同義語であると言ってよいわけだ。
もちろん、今日の人類は、浮気や不倫の多い罪人として神から離れ、「神のごとき存在」とは言い難い状態であるから、父母を敬うのが難しい場合が往々にしてあることは言うまでもない。すなわち、子供が父母に対して尊敬できず、葛藤する場合が非常に多いのである。父母を心から敬う家庭があれば、それは、それだけで理想の家庭に近いと言える。
第六戒も第十戒も、姦淫してはいけないということであるから、夫婦の愛の関係が、愛と信頼の糸で結ばれ、不倫をすることなく、いかにお互いに浮気のない貞節な関係を保つことが大切かということを強調している。夫婦の愛の関係は神が定めた神聖かつ永遠の関係であるというのである。
今日の世界的な家庭崩壊の現象の原因の中で最も大きいのが、不倫である。夫の不倫、妻の不倫、これが一番の大きな離婚の原因となっている。
夫婦の関係が崩れるということは、そのまま、家庭が崩壊することを意味する。人間と人間の横的関係の中で、最大最高の倫理関係が夫婦の愛の関係であると聖書は述べているのである。それが、わざわざ、モーセの第六戒と第十戒において力説された理由である。
夫婦は、いわば、「神のかたち」であるというのが、聖書の創世記に示されている根本思想である。神の中には「男のかたち」と「女のかたち」があり、人間の男と女は、それぞれ、神の中の「男性性(男性であること)」と「女性性(女性であること)」の現れとして理解することができるというわけだ。
その二人が出会って、男女は結婚して一つとなり、二人合わさって「神のかたち」(神の姿)となるのである。すなわち、アダムとエバの結婚であり、イザナギとイザナミの結婚である。だから、人と人との関係の中で「夫婦の関係」(神のかたち、神の姿を作り上げる関係)ほど、大切なものはほかにないという結論である。
マルチン・ルター(1484-1546)は、1517年に宗教改革を起こしたが、多くの苦難を経験しながらも、一人の女性の献身的な理解と支えにより、その生涯を全うした。その女性の名はカタリナ・フォン・ボラ(1499-1552)と言う。
彼女は貴族の出身であり、ローマ教皇を首長とするカトリック教会の修道女であった。しかし、26歳の時、修道院を飛び出し、41歳のルターと結婚して、その妻となったのである。
ルターは、彼女のことを非常に尊敬していたようである。彼女の毅然とした信仰の姿勢と如何なる嫌がらせや迫害にも負けない強さに敬服して、「私の女王」と呼んだ。
ルターはカトリックの神学者らに、結婚の喜びと子供を持つことの喜びについて語っている。しかし、神学者らは容易に受け入れようとはしなかった。ここに、ローマカトリックと袂を分かつプロテスタントのキリスト教の新しい教派が誕生し、プロテスタントにおいては、牧師や神学者たちの妻帯が可能であるという道を作り上げた。
キリスト教における聖職者たちの独身主義か妻帯主義かをめぐる問題は、カトリックとプロテスタントの教理上の最大の相違点となって、今日に至っている。
しかし、「うめよふえよ」とうふうに述べている聖書の原点にある教説や思想に従って、カトリックの聖職者たちが結婚と妻帯、そして家庭生活の道を歩む時代が、今や、訪れているのではないかという感じがする。その方が人間として自然なのである。
現代の世相において、結婚せず、独身を守るカトリックの神父たちの間に広がる同性愛や小児性愛などの逸脱は、もう、そろそろ、普通に家婚して普通に暮らす聖職者になってもいいのではないかという時代の到来を意味すると捉えてみたいのである。
独身で、我慢して過ごしているから、変に、逸脱した愛の世界に落ち込んでしまっているような気がする。ぼくの思い過ごしであれば、お詫びするしかないが、どうもそういう気がしてならない。
その点、修道院でカトリックの信仰を持っていたルターが、あっさり、修道女のカタリナと結婚し、カトリックの聖職者に課せられた独身制度を破ったことは、ある意味では、正解だったような気がする。