マニラ・バニラの不思議 その4
フィデル・ドマゴソ氏は、ホセを通して様々な情報をもたらしてくれた。フィリピン政府がこのマニラ・バニラ作戦に寄せている期待がどれほどのものか、大統領以下、閣僚のすべてが多大な関心をもって見守っている、と聞かされたときには、正直に言って、渡辺はややプレッシャーを感じたほどであるが、持ち前の楽天的な強気で奮い立った。
中野正弘の働きは絶大であった。中野は、早速、フィリピンの主要なテレビ局、新聞社、雑誌出版社などの代表を、マニラ・ホテルに呼んだ。そこで、マニラ・バニラとは何か、マニラ・バニラなるものが浮上してきた経緯について、その意義と観光作戦について渡辺に話させた。通訳はホセが担当した。渡辺が一通り説明し終わったところで、中野は集まってきたメディア界の代表たちに質疑を求めた。
「残念ながら、私は生粋のマニラ生まれのマニラ育ちで、バニラ・アイスクリームがそれほど美味しいものとは、予想もしませんでしたが、その美味しさというものを私も味わってみたくてたまりません。マニラ人も美味しく食べられる方法はないものでしょうか。」
こう質問してきたのは、新聞社「マニラ・ビュレティン」のマニュエル・ラウレル記者であった。当然予想された質問であったが、渡辺は、これには今のところ解決策はないと答えざるをえなかった。
「バニラ・アイスクリームをマニラで食べるために、そんなに多くの人が世界からやって来るものなのでしょうか。実感が来ないというのが正直なところですが。」
この質問をしたのは、GMA TV局のラモン・ラモス編集局長であった。これに対して、中野が答えた。
「もっともな質問です。このマニラ・バニラ作戦を軌道に乗せ、成功させるために、一つ一つクリアしていかなければならないことがあります。こうして皆様に集まっていただいたのも、その取り組みの一つです。広報や宣伝など、重要な仕事がいっぱいあります。」
幾つかの質問が続いたが、反響はまずまずだった。その日の夕刻に、幾つかのテレビ局がマニラ・ホテルでのマニラ・バニラ観光作戦のブリーフィングの模様を伝えた。翌日の新聞には、三紙がマニラ・ホテルでのブリーフィングについて報道した。
中野は次々に仕事を進めていった。フィリピンの人気歌手に「ビバ!マニラ・バニラ」という歌を歌ってもらう計画を立て、人気バンド「ミラージュ」に白羽の矢を立てた。愛くるしい顔をしたヴォーカルのリリーは抜群の人気を誇っていた。英語、タガログ語、日本語、スペイン語、中国語、その他、世界の主要な言語のすべてのヴァージョンをレコーディングし、一枚のCDに収めた。この歌は、ほどなくして、フィリピン全土を席巻した。小さな子供からおじいちゃん、おばあちゃんに至るまで、口ずさむようになった。次第に、ムードは出来上がってきている。仕掛けは順調に進んでいる。
中野の考えは、まず、日本から火をつけようという作戦だった。とりわけ、日本の若い女性たちの間にまず火をつけようと考えた。日本で、「ビバ!マニラ・バニラ」の日本語ヴァージョンが、リリーの可憐な歌声で流されたとき、たちまち、反響を生んだ。それから、日本の人気ロック・グループ「ノーザン・オールスターズ」がこの曲を歌うことになり、ヴォーカルの桑谷兵輔が日本語か英語か分からないような巻き舌発音でムードたっぷりに歌い上げると、こちらのほうも大ヒットし、何だか分からないが、「マニラ・バニラ」という言葉だけが、妙に、人々の耳に残った。そして、多くの人々がマニラ・バニラを一度は食べて見なければならないような気分になっていった。
テレビ・コマーシャルも流れ始めた。売れっ子の女優、藍川モモがトロピカルな南の海を見つめながら、バニラ・アイスクリームを食べている画面が映し出され、そっとつぶやく、「どうしてこんなに美味いの。マニラで食べるバニラは格別ね」とささやく。同時に、リリーの歌う「ビバ!マニラ・バニラ」の曲が流れていく。何でもない、さらっとしたコマーシャルであるが、藍川の起用は大当たりであった。最高のムードに出来上がっている。このコマーシャルは日本の若い女性たちに特に受けて、続々と、若い女の子のフィリピンツアー軍団が生まれていった。
中野は、航空会社との交渉に入った。ジョン・タイラーが作った「マニラ・バニラ+フィリピン観光」の数種類のツアー・パターンを見せ、これから大々的に毎週、3泊4日の企画を打ち出していく、これは間違いなく当たるヒット商品である。従って、このマニラ・バニラ・ツアーに関して、年間契約で航空料金の割引を実施してほしい、と持ち込んだ。
大手二社は、これはいけると踏んだ。そして、割引料金を受諾した。これで、それほどお金のない若者たちも行きやすくなった。一つ一つ、的確に中野は手を打っていった。
渡辺は、ホセ、中野、そしてジョンの三人を自分のスタッフとして選び、迎えたことに大いに満足した。三人はそれぞれの役割においてパーフェクトに働いた。見事であった。この歴史的な企画は動き始めた。実際、フィリピン政府の観光開発局も、渡辺を中心とする4人のメンバーたちの働きに驚いた。猛烈な勢いでマニラ・バニラのプロジェクトを推進していくのを見ながら、たいした奴らだ、と感嘆した。
渡辺は、状況を逐一、フィデル・ドマゴソ氏に伝えた。どこまで仕事は進んでいるか、どういう動きが日本で起きているか、お客はどれ位、マニラに来ると予想されるか、様々な情報をドマゴソ氏に与えた。渡辺から聞いた情報をドマゴソ氏はその通りに大統領に伝えていた。従って、マニラ・バニラ作戦がどのように進んでいるのか、ほかの閣僚たちの誰よりも、大統領はすべて、微に入り細に亘って知っていた。
この、マニラでバニラ・アイスクリームを食べるというツアーは、不思議なほどの勢いでお客を集めていった。それは、一度体験した者たちがマニラで食べたバニラの夢のような味を忘れることが出来ず、口々に会社の同僚、学校時代の友人、親戚などに言いふらしたからである。聞いた人たちのほとんどが、自分も一度行ってみよう、という気になってしまうのである。この口コミ効果が非常に大きかった。ツアー客はうなぎのぼりに増えていった。
続々と雪崩を打って、マニラの空港に押し寄せる日本からの女性客に、空港関係者はもちろん、政府関係者も目を見張った。マニラ・バニラ作戦は確実に動き始めていた。恋人と一緒にマニラに行きたいと考える女性たちは、カップルでやってくるというのも増えて、次第に男性も増えていった。
中年の女性で甘い物好きな人たちは、夫をくどいて一緒にやってくるというのも多くなってきた。こうして、火付け役の女性たちに混じって、男たちのツアー客も増えていった。ジョンは、そのことを見通して、ゴルフ・コースを入れたツアー・パターンをしっかりと準備していた。ぬかりはなかった。
日本からのツアー客がマニラに殺到するにつれて、マニラのホテルやレストラン、ショッピング・モール、その他、観光土産店なども、色々な準備や対応に追われることとなった。ホテルというホテルはバニラ・アイスクリームをホテル内のレストランやバーに置くようになった。ホテルの案内パンフレットなどを見ると、「美味しいバニラ・アイスを当ホテルで!」などと言った文に出くわすのである。
街の小さな食堂などにも、ちゃんとバニラ・アイスクリームが置いてある。当地の人はほとんど食べない。とすれば、これは日本人を意識してバニラを置いたとしか考えられないのである。マニラの人々がバニラに目覚めたのだ。
自分たちが食べても普通の味しかしないのに、日本人が食べると飛び切りうまいらしいという噂がマニラの町中に広がっていった。マニラでバニラ旋風。新聞各紙はもちろん、有名雑誌なども特集を組んで、日本人が火をつけたこの不思議なブームについて論じた。
このようなマニラ・バニラ現象について、フィリピン大学のエミリオ・マグサイサイ社会学教授は、有名雑誌のインタビューに答えて、次のように述べた。
「これは、恐るべき現象です。マニラ・バニラが日本人の多くの観光客をマニラに引き寄せているという事実を社会学的にどう解釈すべきか、興味深いテーマでありますが、簡単に説明するとこういうことになるのではないかと考えられます。
まず、第一に、これは、発案者の渡辺氏も言っているように、マニラ・バニラの共鳴作用が作る音響的完成がマニラのバニラに信じられないほどの美味しさを与えたということ、これについては、広く巷間に知られるようになりましたので、特別、言うことはありません。もちろん、その科学的メカニズムは今後、解明されなければなりませんが。
第二に、多くの日本人観光客が押し寄せてくるようになったということに関して、ここに、なぜ、日本人は、マニラ・バニラを食べたいという衝動にこんなにも簡単に突き動かされるのか、もしこれが、ロシア人だったらどうか、フランス人だったらどうか、など共通した行動の類型化ができあがるのか、それとも、国ごとに全く違った行動の差異があらわれてしまうのかといった問題があります。
私の考えでは、明らかに、これは日本人特有の集団心理からくるところの、あの人も食べたのなら、私も食べよう、彼女が食べて、自分が食べていないというのは恥だ、みんな食べているのに、自分だけ食べていないなんて、取り残されちゃう、という心理的理由が大きいだろうと思います。
お蔭でフィリピンとしては外貨稼ぎに大きくプラスになっているわけですから、日本人のこの集団行動的特性も、決して悪いものではありません。大いに、よろしいと言わざるをえません。
第三に、これは、少し難しい分析になるのですが、そもそも、なぜ、あるとき、渡辺氏はマニラ・バニラの音のリズムに感動し、しかも、このような素晴らしい音韻共鳴を持ったマニラのバニラは美味しいに違いないと思ったのか。そのアイデアを最初に思いついたのが、なぜ、日本人の渡辺稔氏であったのかという根本問題です。フランス人のピエール・ボナパルトでも構わないし、中国人の張泰常でも一向に構わないわけです。
これに関して、私は大胆にも次のような仮説を立てて考えています。つまり、日本とフィリピンとの歴史的な関係にまで遡って考えなければ、この謎は解けないだろうというユニークな問題提起です。
第二次世界大戦で、日本はフィリピンを始め、太平洋の島々に侵攻しました。アメリカやイギリスとの一大決戦が繰り広げられたわけですが、フィリピンもその戦場となり、多くの犠牲が払われたという惨状の事実が残っています。
日本人の渡辺氏がマニラ・バニラのアイデアを脳裏に浮かべた背後には、フィリピンに対して罪の償いをしなければならないというあの世からのメッセージに、渡辺氏は知らぬ間に動かされ、マニラ・バニラのプロジェクトを推進するようになったのではないか。」
いやはや、マグサイサイ教授の学者らしいコメントも、ついに日本とフィリピンの歴史問題にまで発展する始末で、社会学の範疇を超えた「あの世」のメッセージというところまで行き着いてしまった。