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シェイクスピア参上にて候第三章(三)


第三章 英国とインドをシェイクスピアが繋ぐ

(三)シェイクスピアを模したインドの映画を見る

一週間後に、有島さん宅に三人は勢揃いし、ラジャンとベアトリスがそれぞれの報告を直接、興奮した声で生き生きと伝えてくれましたが、わたくしは事務方として、深くうなずき、感動しながらも、わたくしの両手の指はパソコンのワードに猛烈な勢いで、彼らの伝える内容を、文章として打ち込んでいました。

ラジャンのレポートはすでに受け取っていましたが、いろいろこまかいところが、加わっていたので、それらをワードに打ち込みました。この二人のレポートに鶴矢先輩が丹念に目を通してくれるはずです。そしてそれはそのまま東京本社へ送られるでしょう。

ラジャンのレポートは、日本政府および日本の企業に大きなチャンスがあることを窺わせるものでした。

特に、西芝、月立(つきたち)など、それにわが社、その他の関連企業も含め、二百基、三百基と将来にわたって増やし続けていくインドの壮大な原発建設のプロジェクトには、日本が必ず必要であり、フランス、ロシアなどの取り組みはそれとして、技術的に同根である日本とアメリカの原発企業群に強力に参入する機会を与える意向がはっきりと感じ取られました。

場合によっては、日米共同で受注する案件も少なからず出てくるだろうということです。

脇で、有島さんも一緒に耳を傾けていましたが、あまりにも面白い二人の話に、目を輝かせていました。有島さん宅でこういうリラックスしたミーティングを持てることは、余計な邪魔もはいらず、本当に、有難いことでした。

思いがけないほど、早く、本社から依頼された情報収集が一区切りついたので、三人は映画のことを思い出して、有島さんに、インド映画を見たいのでどこか良い映画館を教えてほしいと尋ねました。

すると、紘子夫人が、少し古い映画になるが、カンヌ映画祭で上映された「マクブール」が、再上映されている映画館があると言ってきました。すると、ベアトリスがすぐさま質問しました。

「それはどんな映画ですか。大勢の女性たちがスクリーン一杯に現れて、歌と踊りがたくさん見られるという、ラジャンが教えてくれたような映画かしら。」

「確かに、インドの映画はそういう映画が多いですが、「マクブール」は少し違って、浮かれ踊るというより、かなり暗い映画です。ストーリーは、ムンバイマフィアのお話ということになっていますが、シェイクスピアの「マクベス」をマフィア映画にうまく脚色したような作品と言ったらよいでしょうか、よくそのように評されています。」

紘子さんのこの説明では足りないとばかり、ラジャンが、すぐさま、解説を始めました。

「まあ、ご覧になれば分かることですが、マクベスに当たる人物が、マフィアのボスの部下であるマクブールとして登場します。このマクブールを演じるのは、インドの人気俳優イルファン・カーンです。

スコットランド王ダンカンに当たる人物が、マフィアのボスであるアッバージーになっています。パンカジ・カプールという渋い俳優がアッバージーを演じていますが、しゃがれ声で話す彼の雰囲気はマフィアのボスそのものです。」

そこに、有島潤一郎さんが、一言、話したいような風で、会話に入ってきました。

「インドのエリートたちは、シェイクスピアをよく読んでいると思いますが、やはり、イギリスの植民地政策が軌道に乗っていく中で、教養的な英語を現地の人々に教育するときに、一番、用いられた教材がシェイクスピアであったという事情が、シェイクスピアを世界のシェイクスピアにしていったと考えてもよいと思います。

もちろん、英語を習得した人々はエリートになっていきますし、あるいは、現地のエリート層が英語の習得に積極的に取り組んだとも言えますが。宗主国の大文豪を読むということはエリートたちの一種の誇りであったのではないでしょうか。」

すると、また、ラジャンが、「マクブール」を作った監督に、シェイクスピアの影響が非常に強いことを強調してきました。

「ヴィシャール・バルドワージ監督の代表的な作品として、「マクブール」はあるのですが、彼はシェイクスピアの「オセロ」を「オムカラー」という作品に脚色しました。そしてもうひとつ、「ハムレット」を「ハイダル」という作品に脚色しています。シェイクスピア三部作です。

こうして姿形を変えて、シェイクスピアは世界のどこにでも、現代ものの作品に化けて出るのです。ヴィシャール・バルドワージの心をとらえて、シェイクスピアはインドにも現れているのです。」

わたくしは、ラジャンの話を聞きながら、ぞくぞくっとするものを感じました。ラジャンもベアトリスも、シェイクスピアがわたくしに現れていることをもちろん知りません。

インドに来て、インドを知るためにインド映画を見ようという話が、シェイクスピアに繋がっていく。これは、一体、どうなっているのか。シェイクスピア様がどこまでも同行しておられるような錯覚に襲われます。

ロンドンからの三人と有島さん夫婦の五人は、デリーにある、「マクブール」を再上映している映画館へと出かけました。有島さんの車にわたくしとラジャンが乗り、紘子夫人の車にベアトリスが乗りました。

外のレストランで簡単に食事を済ませ、映画館に到着すると、かなりの人が入っており、私たちは、二階席の後部座席を取りました。紘子さんが言うには、インドでは二階の後部座席がよいところとされているということで、そこの席を取ったのでした。

映画が始まると、しばらくして、わたくしは朦朧として映画の画面に集中することができなくなりました。スクリーンも霞んで見えます。何だろう。不思議な気配を感じます。

すると、わたくしの隣の空いた席にシェイクスピア様が座っていらっしゃるではありませんか。わたくしに語り掛けてこられました。もちろん、わたくしが聞いているだけで、ほかの人には聞こえません。

「ちょっと見ただけでは、「マクベス」だと気づきにくい作りをしています。ヴィシャールはいろいろと考え込んで、ムンバイマフィアの物語として「マクブール」を仕上げました。彼は音楽的才能が豊かで、また、文章を書くのもうまく、多彩な人です。実はわたくしも、単に戯曲を書くというだけでなく、舞台俳優もやり、いろいろなことをしました。まあ、多彩な人生を送ったということになります。」

「シェイクスピア様はそういう多彩なヴィシャールに関心を抱かれたということですね。」

「そう言えば、そういうことになります。お邪魔してすみませんでした。それでは、「マクブール」をごゆっくりと観てください。」

そう言うや否や、一瞬、現れたシェイクスピア様の姿は見えなくなりました。わたくしは、再び、スクリーンに集中しつつ、不思議な感覚に襲われていました。

と言うのも、マクベスの城であるスコットランドのコーダー城へ行ってきたばかりというタイミングで、気が付くと、たちまち、今度は、インドに滞在している身であって、そのインドで「マクベス」のインド的現代版、すなわち、ムンバイマフィアの物語に脚色された「マクブール」を観覧しているというわけですから。

「マクブール」は、ヒンディー語で物語が進みますから、一つ一つのセリフを聞き取るというよりも、感覚的にストーリーを追うことになるのは致し方ないとして、印象的なのは、女優のタッブーが演じるマフィアのボスの妻ニンミーが、マフィアボスの部下であるマクブールの恋人役をも演じているという複雑さによって、物語全体を破局的な方向へと向かわせる最大要因になっているということです。

実際、ニンミーの我儘さと小悪魔的な振る舞いは、シェイクスピア原作のマクベス夫人の狂った野心が引き起こす悪業にも匹敵するでしょう。

原作の「マクベス」では、マクベス夫人が物語全体を悪い方向に導き、そのため、マクベスも妻に引き摺られて悪の相乗効果のような破局へと向かっていくのですが、ニンミーがマクブールに対して示す我儘な振る舞いと誘惑的姿態は、マクブールを理性なき混沌世界へと陥れ、最後には、マクブールが命まで落とすという悲劇で締めくくられるのです。

破局を作ったマクベス夫人の役柄に当たるのが、マクブールの恋人としてのニンミーになるのですが、それを女優のタッブーが見事に演じ、ニンミーは破局を作り出す誘導者として見事に描かれています。

そのことが、インドのマフィア映画「マクブール」をシェイクスピアの「マクベス」と比肩させることのできる最大のポイントではないかと感じるほどでした。

映画の最後のおよそ二十分間で、急速度に進行していく破局への落下の凄さには言葉が出ません。

インドを知るためにインド映画を見よとサジェストしてくれた鶴矢先輩の言葉からすれば、「マクブール」はシェイクスピアのインド版を観たということであり、わたくしは、どうしてもインドそのものを知るという願いに叶った作品を一本は観てみたいと思いました。

有島さん宅に戻ると、インド映画のDVDが、数十枚もあり、これはいいとばかり、インドが分かる映画を観たいと申しますと、結構な映画マニアでもある有島さんがかなり複雑な答えをしました。

「インドが分かる映画ですか。難しいなあ。何をもってインドとするかということになるが、それが簡単ではない。

何しろ、インドは広く、また多民族であり、言語もやたらと多いので、最大公約数を求めるようなことになるが、それもまた最大公約数のようなものがいくつも出てくるといった感じかな。

大きく三つは、間違いなくありますね。インド西部圏を中心とするヒンディー語映画のボリウッド、インド東部圏を中心とするテルグ語映画のトリウッド、インド南部圏を中心とするタミル語映画のコリウッドです。」

「ちょっと待って下さい。それでしたら、インドを知るためにどれだけのインド映画を見たらよいか分からなくなりますね。」

「そうです。ですから、何本かインド映画を観て、インドが分かるというような考えはしないほうがいい。観たいものを観て、シンプルに娯楽として楽しむ、それだけでいいと思います。そういう意味では、これなんかどうかな。」

そう言いながら、娯楽的な感じの「シン・イズ・ブリング」、ランナーがジャケットに写っている「ミルカ」、ラジャンがシンプルにインド映画を語った歌と踊りの満載と思われる「ムトゥ 踊るマハラジャ」などの三枚のDVDを、有島さんは取り出したのですが、こう言いました。

「たとえば、この三本を観て、どう感じるかです。ベアトリスがしきりに気にしていた歌と踊りのインド映画の代表がこの「踊るマハラジャ」です。タミル語の映画で、インド亜大陸の南端部が本拠地ですね。

「ミルカ」は実際の物語で、脚色は多少ありますが、400メートルランナーであるミルカ・シンの話ですね。面白いですよ。「シン・イズ・ブリング」は完全なコミカル・ムーヴィーで、単純に楽しめる映画です。」

「今から、早速、観てみましょう。三つを観て、インドがよく分かるようになるのか、インドがますます分からなくなる結末に至るのかどうか、とにかく観ることにします。」

わたくしは夢中になって三本を観ましたが、映し出される風景や動物、植物、建物や人々、そして人々が繰り広げる衣食住的な光景、そういったインド的な自然環境と社会環境が、まさにインド的なのであって、映画のコンテンツはいくらでも多様な広がりを持ち得るという当たり前のような結論に至りました。

やはり、インド亜大陸という自然環境と社会環境、すなわち、環境が決定的に人々の暮らしを支配する要因というものを見落とすことができないと確信しました。映画はそのインド的環境の雰囲気を掴むのに最適であったと言えるでしょう。

インドには十日間の滞在で、鶴矢先輩がインドに送ってくれた目的を成し遂げたような状況になって、懇切丁寧に、有島さん夫婦に別れを告げ、お礼として、三人で考えたのはノーベル賞作家のラビンドラナート・タゴール(1861-1841)の詩を刺繍した高価な額縁の絵、タゴールの顔とインドの自然が綺麗に刺繍してあるその上にタゴールの詩が刺繍されているのですが、その絵を購入して渡すことにしました。

夫婦はとても喜んでくれました。それに加え、十日間、お世話になったしるしに、封筒にそれなりのお金を入れて渡そうとすると、受け取ろうとしませんでしたが、この期間、日本の祖父母のところへ訪ねていて、会うことができなかった有島さんの子供さんたちに何か買って上げて下さいと言って、無理矢理、渡して受け取らせました。

一言で言って、インド滞在は非常に楽しい思い出となりました。

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