見出し画像

自由か規制か その2


サッチャーの英国とレーガンの米国が、ハイエクやフリードマンが主唱したアダム・スミス的な経済思想によって、共に経済の再生と復活を遂げる中、1980年代以降の資本主義が、必ずしも健全な発展を示しているとは言い難い側面もあり、多くの矛盾を生み出している姿を、冷静に分析するケインズ派の経済学者たちが現れた。ケインズの逆襲といったらよいだろうか。

その代表格が、ユダヤ系アメリカ人のジョセフ・スティグリッツ(1943-)である。とりわけ、彼は、激しく進行する世界的な「経済格差」に疑問を投げかけた。

グローバリズムに対する批判的な検討を加えるとともに、2007年に顕在化した「リーマンショック」とその後の「世界金融危機」(2006-2010年代)を見て、数々の提案を行ったスティグリッツであるが、一見、リベラリズムの社会主義者に見えるが、本人は、「プログレッシブ・キャピタリズム(進歩的資本主義)」と言って、資本主義の足場を堅持している。

経済格差を生み出す原因の一つに、スティグリッツが言う「情報の非対称性」というものがある。

市場において取引を行う場合、「売り手」のみが専門の知識と情報を有し、「買い手」はそれを知らないというような不均等な情報構造が存在すれば、売り手は買い手を欺くことが可能である。

金融(銀行、保険、証券)関係の業界において、それは情報弱者を搾取することに繋がると言っても過言ではない。特に、金融資本主義という形に特化されるような資本主義経済が出来上がってきた今日において、「情報の非対称性」は深刻な問題を引き起こす要因であると言える。

スティグリッツは、「世界を不幸にしたグローバリズムの正体」(2002年)の中で、IMF(国際通貨基金=国連の専門機関)を批判し、IMFの推し進めた資本市場の自由化は、アメリカ(ウォールストリート)のための金融市場を開拓しただけで、グローバルな経済の安定にはほとんど貢献しなかったと、IMFを槍玉に挙げた。

歪んだグローバリズムが不安定な世界を作ったというのだ。すなわち、経済格差を生むグローバリズムに、IMFが加担し、一部の金融エリートたちが世界の富を独占する結果になっただけというのである。

このように、暴走するフリードマンのマネタリズム(貨幣主義、通貨主義、中央銀行の貨幣供給の調整の役割だけで経済はうまくいく)の弊害に、物申したスティグリッツは、経済には政府の積極的な規制や介入が当然必要であるというケインズの立場に立った提言を多く行い、資本主義は再び、ケインズを呼び戻す流れに至る。

そこに、もう一人、ロシア系アメリカ人のポール・クルーグマン(1953-)が、リーマンショックの行き着く先を予言的に警告する慧眼を持って、論客に加わり、ケインズ的な大幅な金融緩和、思い切った財政出動の経済学を叫んだのである。

スティグリッツもクルーグマンも、ノーベル賞を受賞しているが、似たところもあれば、違う所もありつつも、二人は、基本的にケインズの考えに立っている。

20世紀末から21世紀にかけて、激動する世界は、政治、軍事だけでなく、経済も大きく変動する時代で、アダム・スミス(自由、小さな政府、減税)とケインズ(規制、大きな政府、増税)のリニューアル版が激しく戦う様相であった。

第二次世界大戦後の日本は、護送船団方式で、政府主導の社会主義的なケインズ型の政策を永らく採用し、それがうまくいって、素晴らしい成功体験を享受した日本であったが、幸か不幸か、その日本経済が脆くも崩れ去っていく光景を世界は目にした。

ジャパン・アズ・ナンバーワンとして日本経済を称賛した世界の論調が、手のひらを反すように変化する中にあって、再び、アメリカをケインズに回帰させようとする意図を強く示したスティグリッツとクルーグマンにとって、日本のケインズ型経済の沈没は非常に気になる所であったはずだ。

二人は、アメリカの行き詰まり、そして日本経済の沈没の理由に目を向け、いろいろと答えを探った。

スティグリッツは、中央銀行の在り方について苦言を呈することが多く、フリードマンのマネタリズム(中央銀行が貨幣供給の調整をうまくやりさえすれば、経済は順調にいく)の考えでは、難局を克服できない現実を認識した。

中央銀行による貨幣数量説を単純に唱えるマネタリズムには根拠がないと手厳しく、欧州中央銀行(ECB)やアメリカ連邦準備理事会(FRB=アメリカの中央銀行)の超緩和政策に懐疑的な発言を行う。

マネタリズムでは、市場のマネーゲームが加熱するだけで、銀行や投資家の私利私欲の追求(=貪欲)を招き、歪んだグローバリズムが、結局は、世界を不幸にすると断言したのである。

クルーグマンは、基本的には大恐慌時のニューディール政策の信奉者であるから、ケインジアンの代表であると言えるが、2007年に発生した「世界金融危機」が、2010年を超えてもなかなか終息しない現実を直視しながら、様々な発言をメディアで賑わせた。

日本に関する発言も多く、財政政策(大幅な財政出動)を強調することもあれば、金融政策(紙幣の大量増刷)の可能性を述べるときもあるといった具合で、発言内容は一貫していないが、90年代から陥った「失われた20年」のデフレスパイラル、この日本の失敗を批判したことを、クルーグマンが真摯に詫びる場面があった。

その理由は、日本以上の失敗を欧米はやらかしたと「リーマンショック」「世界金融危機(2007年~2010年代前半)」を容易に克服できない現実に大きな失望を感じたからである。「失われた20年」などと日本のことを笑っていられなくなったのだ。

ブッシュ政権の対テロ戦争を厳しく批判したクルーグマンであったが、同様に、スティグリッツも、300兆円を無駄遣いしたイラク戦争の正当性を疑った。戦争をしなければ経済が持たないなどという歪んだ経済システムが機能すること自体が不合理、不条理というものであろう。軍需産業だけが潤ってどうするのか。

戦争経済で潤うこともあれば、そうでない場合もあり、アメリカの財政赤字は、明らかに、ベトナム戦争以降、たびたび関わってきた多くの戦争に巨額の戦費を投入したことが考えられる。

2000年代、「サブプライム住宅ローン」という金融商品で投資銀行が荒稼ぎした後に、そのあおりを受けて、欧米の金融業界を襲った「世界金融危機」であったことは明白だったが、そもそも、こういうお金が、回り回って、戦費補充に回っていたとすれば、合理的な経済政策などは不可能であり、不透明で説明困難な経済動態(戦争経済)を国家自体が抱え込むことになる。

ハイエクとフリードマン、そして、スティグリッツとクルーグマン、これらの経済学者たちの考察と提言は、人類が抱える問題克服の為の思索と要請であり、人類平和への希求と言えるだろう。

経済社会が、自由を中心に動くか、規制を重んじて動くか、そのどちらかが正しくどちらかが間違っていると断定することは難しく、どちらもメリットとデメリットの両面があることを知らなければならない。経済学は難しく、単純ではないことは明白で、そうだとすれば、自由と規制のバランスの中に答えを求めていかざるをえないだろう。ぼくは、そのように考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?