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ビービーなひとびと その2

高校を卒業して、アリゾナ大学に入った私の前に現れた大学時代の最初の友人は、フレッド・フリーマントルであった。彼は高校を卒業して社会で様々な職業を経験し、二十八歳にして大学へ入ってきた人物であった。

例に漏れず、偏執的な固着はフレッドにも認められた。彼はでっぷりと太った体形で、眼鏡をかけていた。フレッドの偏執的な一点集中性がもたらす関心の対象は、あらゆる小説に向けられていた。古典と言われるものから最近のものまで、世界中のあらゆる小説の筋書きが彼の頭の中にあった。そして、それぞれの小説の中に登場する人物たちの名前が彼の頭の中にすべて記憶されていた。

シェイクスピアの全作品と全登場人物はもちろんのこと、日本の古典と言われる『源氏物語』の筋とその中の登場人物がすらすらとフレッドの口から出てきた。また、コナン・ドイルの全探偵ものについても同様であった。トールキンの『指輪物語』にしても、あらすじから登場人物まですべてが彼の頭脳に記憶されていた。いわゆる、マニアと呼ばれる人間たちの中で、小説に対するこれほどの偏執的記憶力の持ち主を私は知らない。一体、それがフレッドにとってどういう益となっているのかという質問はおそらく愚問である。小説の世界をすべて脳裏にしまい込むことが、それ自体が、おそらくフレッドにとってはこの上ない愉悦なのである。偏執狂に価値や意味を問うてはならない。没入している対象そのものが彼の全存在を捉えているからである。

ある日、私はフレッドと大学のベンチに腰を下ろし、語り合っていた。私は彼に鳥のことをいろいろ話してあげたのであるが、その中で雲雀(ヒバリ)について私が触れると、即座に次のような言葉が返ってきた。

「雲雀と言えば、随分、小説の中でも取り上げられているね。雲雀が、春に空高く舞い上がり、さえずる姿は、とりわけ、多くの詩人たちの心を捉えてきたものだ。たとえば、日本の詩人に萩原朔太郎という人がいるが、『月に吠える』という詩集の中に、「雲雀料理」という小品を載せており、それがとても変わっている。「あはれあれみ空をみれば、さつきはるばると流るるものを、手にわれ雲雀の皿をささげ、いとしがり君がひだりにすすみなむ」と歌っている。雲雀の美しい叙情ではなく、皿に乗せられた料理の雲雀だ。萩原朔太郎という詩人はどこか残酷な抒情を持っている。」

私は、聞いたこともない日本の詩人の引用にも吃驚したが、その詩人の変わった作品をフレッドがすらすらとそらんじたのには仰天するしかなかった。その辺の小説マニアでななかった。記憶の引き出しの中から正確に記憶されたものを引き出したのである。

雲雀に続いて、私は鶯のことを話し始めた。すると、フレッドは直ちにわたしに次のように語った。

「鶯と言えば、また、日本の作品で思い出すのだが、谷崎潤一郎と言う作家がいて、彼が書いている作品に『春琴抄』というのがある。その中で、盲目の美人、春琴が小鳥道楽にふけっている一節が書かれており、非常に面白い記述だ。ぼくは谷崎の『春琴抄』を自分で英訳してみたのだが、ここにちょうど、その谷崎の原書を持っているので、ちょっと読んでみよう。」

そう言って彼は、その鶯のくだりを日本語で読んだが、私にはその意味が皆目分からなかったので、フレッドは英語で内容を説明してくれた。


 ケッキョ、ケッキョ、ケッキョ、ケッキョと啼く所謂谷渡りの声、ホーキーベカコンと啼く所謂高音、ホーホケキョウの地声の外に此の二種類の啼き方をするのが値打ちなのである。此れは藪鶯では啼かない。偶々啼いてもホーキーべカコンと啼かずにホーキーベチャと啼くから汚い、べカコンと、コンと云う金属性の美しい余韻を曳くようにするには或る人為的な手段を以て養成する。それは藪鶯の雛を、まだ尾の生えぬ時に生け捕って来て別な師匠の鶯に附けて稽古させるのである。尾が生えてからだと親の藪鶯の汚い声を覚えてしまうので最早や矯正することが出来ない。


「このあともずっと鶯に関して面白い記述が続くのだが、このくらいにしよう。ぼくは、ドナルド・キーンの一連の日本文学に関する著作を読んで、非常に日本文学と言うものに興味を持った。日本語も独学で一生懸命学んだ。谷崎潤一郎の『春琴抄』は中編でそんなに分量もないから、日本語の勉強を兼ねて、自分で英訳してみたところ、内容がとても面白かった。日本人と言う人種は、鳥を愛でる習慣が昔からあるようだね。

『春琴抄』は、女主人公の盲目の美人「春琴」を題材にしているが、僕の見るところ、彼女に仕える佐助のほうに実は比重が置かれているような気がする。君も一度読んでみるがいい。」

私は、鶯について少しばかり触れたところだったが、「うぐいす」と言う言葉を耳にしただけで、フレッドがこれまた私には全く馴染みのない日本の作家の一節をいとも簡単に引用して聞かせると言う離れ業をやってのけたのである。まったく、フレッドの小説マニアぶりに私はただ驚くばかりであった。

私は、彼を少し試してみたくなった。私が何か或る鳥について話すと、フレッドはその鳥のことを記述している何らかの文学作品について語ることができるのであろうか。意地悪な気持ちを抑えきれなくなった。そこで私はカラスについて彼に話し始めた。

「カラスと云うのは実に面白い鳥で、本当に賢い奴だ。その賢さについてはいろいろと事例が報告されている。識別能力、認識能力の高さについても非常に素晴らしいものがある。」

そういうふうに、私はちょっとカラスの話を投げかけてみた。すると、たちまち、彼はカラスが扱われている作品について語り始めた。

「カラスは多くの文学作品の中に現れる。とくに、エドガー・アラン・ポーの「大鴉」はよく知られた作品で、これはポーの詩人としての人気を不動のものにした。実際の大鴉がどういうものであるかということは全く別の話だが、とにかく、ポーの独創的な詩魂が「大鴉」の中に芸術的な一篇の詩を書かしめたことは確かだ。

この大鴉(レイヴン)は、旧約聖書の中にも顔を出している。アブラハムが供え物をした時、その供え物に襲いかかったのが大鴉(レイヴン、荒い鳥)であり、悪魔の象徴とされる。カラスの不気味さ、知恵深さ、鳴き声などが悪魔性を連想させるのだ。そう思わないかい。」

「カラスが悪魔の象徴として相応しいかどうか、僕には分からないが、鳥好きの僕からすれば、カラスはまずクロウとレイヴン、その他に分類されることから始めなければならない。クロウはレイヴンに比べるとやや小さいが、このクロウが広く分布していて、ハシボソガラスとハシブトガラスの二種がいるというのは常識だね。レイヴン(ワタリガラス)はいかにもその鳴き声と言い、風貌と言い、ある種の悪魔性を感じさせるものがあると言えなくもない。雑食性で死肉を突くカラスの姿などが不気味に思われ、悪魔の使いのように言われてきたのだろうと思うが、カラスはいたって人間に身近な愛すべき鳥だと言うのがぼくの見方だ。」

私は、フレッドといろいろな機会に会話を楽しんだが、小説に出てくる様々な鳥たちがいかなる作品にどのように登場しているかを語った彼の該博な知識にはただただ驚くほかなかった。もちろん、それは、私が鳥類マニアであることを十分に意識しての彼の知識の披瀝であったが、それにしても、おおよそ三百種余りの鳥たちが彼の口からすらすらと語られたのには私は正直なところ開いた口が塞がらなかった。

だれか魚類マニアがフレッドに魚のことを話したならば、たちまち、その魚が記されている文学作品の一節について彼は語ったことだろう。だれか料理マニアが何かの料理について語ったならば、フレッドはその料理がでてくる文学作品について述べたことだろう。

小説を読む人々は少なくないが、おおまかなあらすじだけが頭に残り、たいてい、細かいところは記憶に残らないと言うのが普通であると思われる。特に印象的なところに関しては、細かく記憶されることはあっても、忘れ去られる部分の方が大半であろう。主人公の名前ですら、正確に記憶するのが難しい人だっているくらいである。

こういうことを考えると、フレッドの小説記憶力は特別な能力だと言っていい。F.F.という同一イニシアルから発せられる特殊なエネルギーがフレッド・フリーマントルの脳細胞を刺激し、記憶の倉庫を開いて、あらゆる小説の文字を飲み込んでいくのであろうか。

私は自分がB.B.なる男として、「べべ」という女々しいあだ名までもらい、人生に大きなトラウマを抱えて生きてきた自らの半生を振り返りながら、それでも鳥類に対する「偏執的な固着」が一種の救いとなり、すべてを忘れてそれに没頭することができたと言う僥倖に感謝している。同一イニシアルを憎悪した時期もあったが、今では、同一イニシアルが持つ特殊エネルギーを楽しみ、多くの同一イニシアルの友人たちとそれぞれの特殊性を分かち合いながら人生を楽しんでいる。

さて、大学を卒業して、私はニューヨークにある大手の出版社に勤務した。そこに運命が我々を引き合わせるかのように、一人の人物との出会いが、私を待っていた。

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