菊池寛に感動する私
「菊池寛の『父帰る』」
菊池寛と言えば、彼の戯曲『父帰る』(1917年)は非常に有名で、何度か映画にもなっているほどである。
作品を知らない人が、「父帰る」のタイトルだけを聞けば、どんな姿で帰ってきたのかと思うだろう。
颯爽と、意気揚々と、晴れ晴れとした姿で帰ってきたのか、何か敷居の高い我が家へ足を踏み入れるのが、気が引けるような、罪人のように、申し訳なさそうに帰ってきたのか、よくわからないだろうが、答えは後者である。
家を出たことへの罪悪感を覚えつつ、恐る恐る戻ってきたのである。
妻子を置いて、出奔した黒田宗太郎は、妻のおたかと長子の賢一郎、次子の新二郎、娘のおたねをのこして忽然と家を出た。
女を作って、女房、子供を捨て、家を出たという話であるが、20年の歳月を経て、やつれ果てた姿でわが家へと戻ってきたのであった。
宗太郎が家を出たとき、妻は31歳、賢一郎は8歳、新二郎は3歳、おたねはお腹の中にいたか、生まれたばかりか、であった。
3人の子供を育て上げる妻おたかの苦労はいかばかりであったか、弟や妹を学校へ出すために一生懸命働き、一家の大黒柱として、父親代わりとなって、母のおたかを支えてきた長男の賢一郎の心中は、家出した父を許せない思いで一杯だった。そんなところに、父が帰ってきたのである。
妻のおたかはただただ懐かしい思いで夫を許し、家に入れる。次男の新二郎も父の帰りを喜ぶ。娘のおたねも成長した自分の姿を見せ、「おたねです」とお互いに顔も知らなかった父娘は喜ぶ。
しかし、問題は一家を支え、家を出た父の代わりとなって苦労に苦労を重ね、弟と妹を学校に出し、母を支えてきた長男の賢一郎の気持ちは、簡単ではなかった。
この『父帰る』の戯曲の山場は、父の宗太郎と長男の賢一郎の激しいやりとりにある。
正論を吐く賢一郎の一つ一つの言葉に、言い返す父の言葉に勢いはなく、最後には、せっかく帰ってきた父であったが、「帰ってくる資格はなかった」と観念し、再び、家を飛び出してしまった。
賢一郎は気持ちが変わったのか、言い過ぎたと思ったのか、
「新!行ってお父さんを呼び返してこい」
と弟に命じ、父の後を追うのだが、見つからない。兄弟二人は家を飛び出して必死に父の後を追うところで、この戯曲は幕を閉じる。
「恨みを乗り越え、父への許しと愛を示した息子」
後日談は書いてないが、おそらく、父は連れ戻され、一家は平穏な暮らしを取り戻したということかもしれない。
ポイントは賢一郎の気持ちが最後には解けて、父を許したということにある。『父帰る』の表題の重さがここにある。
20年の放蕩三昧の末に、捨てた妻子のもとへ帰る一人の男、帰ってきた父親を簡単に受け入れることのできない長男、この恨みの積もった緊張関係は、並大抵のことでは解けないはずであるが、再び出て行った父を家に迎えるべく、賢一郎は弟の新二郎に、父の後を追い、呼び戻してくるように命じる。
この賢一郎の心の急激な変化、父に対して言うことをすべて言い、吐き出したあと、賢一郎の積年の恨みは、すっと消えたものと思われる。
賢一郎と新二郎の二人は半狂乱になって、父のあとを追いかけるところでドラマの幕は閉じるのである。
菊池寛の小説に『恩讐の彼方に』(1919年発表)というのがある。この小説は、父の敵を討つために放浪して、やっと父の敵を見つけ出した中川実之助は、敵を討つタイミングを狙う。
しかし、その市九郎と名乗る父の敵は、昔は悪人であったが、心を入れ替え、了海という僧侶となっていて、耶馬渓(豊前国=大分県)の難所を開削する事業に身を挺しており、大慈大悲を実践するその姿を見て、実之助は敵を討つことができなくなり、了海和尚にすがりつき、号泣するところで話が終わっている。
こういう話の筋を好む菊池寛なる人物は、愛と許しと言ったテーマを追求しているように思われる。
どんな悪人でも、裁くのではなく、いいところもあるはずであるから、許しが必要であり、愛することが必要ではないかと、菊池寛は言いたいようである。
「菊池寛の人間像」
菊池寛は、35歳(1923年)のとき、雑誌『文藝春秋』を創刊した。彼の下には多くの文人たちが集まった。
1927年、芥川龍之介が亡くなったときには、号泣し、葬儀では弔辞を読む半ばから涙が止まらなかったと言う。情の厚い人だったのだろう。
奥村包子(かねこ)と1917年(29歳)に結婚し、瑠美子(長女)、英樹(長男)、ナナ子(次女)の三人の子供を儲けている。
『文藝春秋』の方針が戦争協力的であったとの理由で、菊池寛は公職追放の指令を受け、1948年、狭心症に倒れ、亡くなった。享年59歳。