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日本の絵画 その2

満谷国四郎:戦の話

明治39年(1906年)の太平洋画会展に出品された作品で、満谷国四郎(みつたにくにしろう)の「戦(いくさ)の話」(倉敷美術館蔵)という大作がある。

日露戦争(1904-1905)の帰還兵が家族に戦争体験を話している画で、帰還した兵士は軍服のまま畳の上に座って銃剣を構えた身振りで家族に戦争話をしているところである。

画面の左端の白い顎鬚(あごひげ)を蓄えた老人はおそらく父親であろう。心配していたが、兎に角、息子が無事に帰ってきてくれて何よりであったという安堵の気持ちの中で、戦の話に耳を傾けているのかもしれない。

画面中央の立て膝をついて話に聞き入っている男は、戦場に動員されなかった帰還兵士の兄であろうか。二人の和服の女性は、帰還兵の兄の妻と、帰還兵の妻あるいは帰還兵の妹といったところかもしれない。

臨場感豊かに戦場の雰囲気を前屈みの姿勢で語る帰還兵と、それに真剣に聞き入る家族の姿は、大国ロシアに立ち向かった日本の奇跡的とも言うべき勝利が、一体、どういうものであったのかということを、帰還兵の話から今一度噛みしめてみようとしているかのようだ。

この作品の特徴として挙げられる点は、古びた和室の空間を満たしている光の微妙な揺らめき、濃淡といった空気が感じられることである。

帰還兵の背中の方に障子が描かれており、その障子紙から差し込む淡い日差しが、部屋の中に微妙な陰影を作り、くっきりと斜めに射し込んだ光を壁に描き入れている。

全体的に、茶系統の薄暗い部屋が、帰還兵の戦の話によって戦場にいるかのような緊張を生み出しているのが伝わってくる。


満谷国四郎(1874-1936)は岡山の賀陽郡門田村(現在は総社市門田)の生まれであるが、この地は雪舟の生まれたところでもある。周りから雪舟の後に続けと励まされることも多く、幼少より画才を示す国四郎への期待は、いろいろな人が示すところであった。本人も勿論、切磋琢磨して画技を磨き、芸術家の道をまっしぐらに志した。

1892年、上京して、小山正太郎(1857-1916)の画塾「不同舎」に学び、1898年の明治美術会創立10周年記念展へ出品した作品「林大尉の戦死」が、明治天皇の目に留まり、宮内庁から買い上げられた。

また、1900年の作品「尾道港」も宮内庁の買い上げとなるなど、満谷国四郎の名声は一挙に高まっていった。1901年および1912年の二度にわたり、フランスへと渡欧して、ジャン・ポール・ローランス(1838-1921)の教えを受け、後期印象派の影響を受けながらも象徴主義的な画風も併せて彼独自の境地を開拓していった。

満谷国四郎の作品の中で、「戦の話」は言うまでもなく、代表的な傑作であることは間違いないが、戦の話をする帰還兵とその家族というモチーフは、洋の東西を問わず、ほかの画家たちを含めても珍しいものである。

満谷はどういう気持ちでこの作品を描いたのであろうか。富国強兵を掲げ、日清、日露の勝利とともに、殖産興業の近代日本を築き上げていく明治政府は、なかんずく、日露戦争という一大事を、薄氷を踏む思いで何とか乗り越え、国民も勝利の歓喜に沸き立ったことであろう。

その日露戦争の戦場に送られた兵士は、大変な戦い、一歩間違えれば命が吹き飛ぶ戦場の様子を、家族に深刻な思いで語ったに違いない。とすれば、満谷が描いた「戦の話」は、戦果を誇らしく語る帰還兵の姿ではなく、単純な戦争の美化などと言うものでは決してないと言わざるを得ない。

できる限り、戦争はないに越したことはないという祈りを込めた油彩画であろうと推測する。

満谷国四郎は、中国大陸への旅を四度ほど敢行したこともあって、晩年、その作風を東洋画風の世界へと転じ、下落合(新宿区)の自宅で、平和な心境をもって過ごしたと思われる。

そのことを端的に示す画が「早春の庭」(1931年、大原美術館蔵)である。寒い冬が終わり、春の息吹が感じられる早春の庭には、モクレンの花が咲き、母犬が、二匹の子犬がじゃれ合っているのをじっと見守っている柔らかいタッチの日本画に近い作品である。

平和な母子の犬家族をそのまま、人間世界へ移し替えると、人の家族、家庭にこそ平和があれよと願う満谷翁の偽らざる気持ちがあったのではないか。

「早春の庭」を描いた1931年の9月には、満州事変が勃発しているから、動乱の1930年代をまさに突き進んでいく日本の姿が一方にあり、そんな時世の中で、平和な風情を描く満谷の心境は、「戦の話」で描いたような日露戦争のごとき戦争はもう十分だと作品「早春の庭」に言わせているように思われる。

すべての気持ちを画に言わしめた満谷国四郎、饒舌も健筆もなく、ひたすら画に生きた人物だった。


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