UK ROCK「デュラン・デュラン」を語る
親愛なるデュラン・デュラン
映像と音楽の一体性、聴く音楽から観る音楽へ、あるいは聴くことと観ることの同時一体性へと、1980年代における時代の欲求が大いに高まったビジュアル重視の風潮は、音楽の映像化時代を決定的なものにした。
エレクトロニクスの最先端を走る日本は、その意味において、音楽を映像で楽しむ先進基地のひとつであり、世界のビッグ・アーティストたちの格好の活動舞台となっていることは周知の事実である。
時期の正確な記憶は分からないが、多分、1984年か85年のころだったと思う。そのとき、ぼくがデュラン・デュランのビデオを見たときの印象は、その映像美と幻想的な美しさであった。人はデュラン・デュランの登場を、「ニュー・ロマンティック」と呼び、華麗なロックが世界を席巻していった。
ビデオ映像の中には、「グラビアの美少女」(Girls On Film)のような際どい映像も含まれていたが、全体としては、幻想的な美しさが強い印象として残った。
音楽のイメージを映像化するということは、簡単なことではないだろう。ワーズ(歌詞)が与えるイメージ、メロディーから来るイメージ、リズムが与えるイメージなどがあり、そしてそれらが総合されて与えるところのひとつのイメージが存在する。
しかし、これも人によって千差万別であり、多様なイメージから一つのイメージを選択するということは容易なことでない。歌詞、メロディー、リズムを総合したものからどんなイメージを得るか、非常に難しい。
そこまで考えると、音の映像化は大変に高度なセンスと芸術感覚が必要であるということになるのであるが、しかし時代の要求はますます音と映像の視聴一体感の喜びを追求する方向に向かっていて、現在においてもなお、留まるところを知らない。
前口上が長くなったが、デュラン・デュランはまさしく映像と共に、ぼくのところへロックの音を運んできた艶美なグループであった。映像美の中で、愛の宴を歌い、孤独を叫び、苦悩を表し、求愛を演じる映像のエンタテイナーたちであった。
いくつかの印象に残る曲を中心に、デュラン・ミュージックのファンタジー・ワールドへ、みなさんをご案内しよう。
アルバム「リオ」(RIO)の中の一曲「セイヴ・ア・プレイヤー」(Save A Prayer)は、東洋的な旋律美を奏でる神秘の幽玄郷を現出させている。そのメロディーはあまりにも美しく、あまりにも穏やかで、あまりにも優美である。このような曲に触れると、ぼくの魂は幽明の境をさまよう。夢幻の世界へと旅立つ。
同じく、アルバム「リオ」の中の「ザ・ショーファー」(The Chauffeur)もまた美しい曲である。どこか中世的な香りを漂わせるセピア色の演奏の中から聞こえてくるサイモン・ル・ボンのヴォーカルが哀しく優しく響く。以上の二曲は静の美学を彩る曲の典型であろう。これに、もう一つ加えるとすれば、「カム・アンダン」(Come Undone)が挙げられよう。
もう一方の動の美学に分類される曲はどうかと言えば、先ず頭に浮かんでくるのが、1984年のヒット曲「ワイルド・ボーイズ」(The Wild Boys)である。均整の取れたビートの快感が、何とも心地よかった。
「ワイルド・ボーイズ」は、大学の仲間たちとディスコを踊りに行ったときに、よく流れたものである。ナイル・ロジャースのプロデュ―スとあって、強力なダンス・ビートに仕上がっている。
さらに、同じ1984年のヒット「ザ・リフレックス」(The Reflex)、83年のヒット「ユニオン・オブ・ザ・スネイク」(Union Of The Snake)など、錚々たるダイナミズムの音楽世界がデュラン・デュラン・ワールドに屹立しているのを見る。そして、そこにはアンディ・テイラーの強烈な個性が動の美学を支えている姿が見えてくる。
1981年にデュラン・デュランの第一弾シングルとして出された「プラネット・アース」(Planet Earth)は、そのタイトルにおいて、宇宙時代のイメージを彷彿とさせ、非常に魅力的な曲として出来上がっている。
「プラネット・アース」の曲調は、若々しく、瑞々しく、清々しい感性に溢れ、そのドライブの効いたビートの疾走感は、宇宙空間を猛スピードで飛ばしながら、果てしない宇宙を遊泳する近未来的イメージを放っている。
実は、ぼくがデュラン・デュランのファンとなり、彼らの音楽を見守り続けるようになったそのきっかけの曲が、この「プラネット・アース」であったのだ。だから、ぼくはこの曲を非常に気に入っているし、今でも非常に好きである。
ぼくは、よく友人にこんなことを話す。すなわち、宇宙から地球を見つめる感覚について語る。それは自分の意識を大きく変えるものである。
地球に住んで、地球を見る感覚を一旦捨てて、宇宙の彼方から、あるいは天空に座する神の視点から、地球をひとつの「完全な愛の共同体」として見る感覚について思いを馳せる。だから、「プラネット・アース」という言葉は非常に好きである。
いとしいプラネット・アース
生命を運ぶプラネット・アース
愛を叫ぶプラネット・アース
おお、豊かな水を湛える惑星地球よ
まあ、そういう感覚で地球を見つめるのだ。そうすると、いろいろと騒ぐ人間たちの雑音が消えていく。ただ、愛のみが光り輝く地球が目に前に浮かんでくる。
アメリカだ、日本だ、ロシアだ、などと国の特性や違いを論ずるのも結構だが、「プラネット・アース」とひとくくりに表現する心地よさは、多分に、「愛の共同体」としての人類のイメージを端的に表すところから来るものであろう。
宇宙船「地球号」とか、地球村とか言われると、心の中に地球への愛情と肯定作用が生じるので、ハッピーな気持ちになるのである。
惑星地球の乗車客がお互いに争い合う姿は、有機的生命体と言うべき宇宙そのものにガン細胞が取りついでいる状態であり、ガンに冒され、宇宙の調和が破られている状態であると言えるのではないか。
人類は最早、争い合っているときではない。愛し合うことを学ばなければならない。ヤルタ会談(1945年2月)に始まる二極主義から、マルタ会談(1989年12月)に終わる調和主義へと、激変する時代相を、ほんの30年前に見たわけであるから、和解と協調が人類の道でなければならないはずだ。
一つの家族として生きる地球を探し求めることが大切である。人類共同体への夢を抱かなければならないだろう。一人ひとりが、自分の本当の心に立ち帰ることができれば、人類共同体の夢は、実現可能であると信じたい。
「プラネット・アース」、何と素晴らしい言葉ではないか。そこには無数の美しい生命たちが今日を生きている。今を生きている。
デュラン・デュラン、本当にありがとう。プラネット・アースの明日を共に担い行こう。