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新世界を称えた「ドボルザーク」


ドボルザーク(1841‐1904)と言えば、交響曲第9番「新世界より」という傑作が、誰の脳裏にも浮かんでくることだろう。

「新世界」の第2楽章や第4楽章などを聴くと、ヨーロッパの旧世界に対する新世界、すなわち、新大陸アメリカを中心とする壮大な希望と夢が広がるのを感じさせてくれるような、そういう爽快な気分を堪能させてくれる素晴らしい曲調であることがわかる。

総じて、ドボルザークに言えるのは、優雅なメロディーとその美しさが強く耳に焼き付くことである。このメロディーの美しさというものは、後期ロマン派の中の国民楽派の作曲家たち、例えば、ドボルザーク、スメタナ、チャイコフスキーなどにおいて、顕著にみられる特徴であると言ってよい。

アントニン・ドボルザークはチェコの作曲家であるが、チェコの西部と中部がボヘミア、東部がモラヴィアと呼ばれるから、プラハの北部で生まれたドボルザークは、同じチェコのスメタナとともにボヘミアの人である。二人をボヘミア楽派という呼び方で言うのもボヘミア出身だからである。

幼少から音楽修行を積んだドボルザークは、その才能を着実に伸ばしていくが、ブラームスにその才能を見出されてから一躍人気を博することになる。ブラームスの影響を受けるようになる前は、もっぱら、ワーグナーの虜になっていたが、次第にその影響から抜け出していく。

芸術家たちの生涯は、その強烈な個性から、彼らの結婚及び家庭生活のことに話が言及される時、決して平穏なものと言えない側面を多く見てしまうといったことが少なくない。

だが、ドボルザークの場合、波乱万丈の家庭生活といった要素がほとんどなく、極めて円満な家庭生活を送ったと言ってよい。

そうは言っても、まったく試練がなかったと言うのではない。子供の死という出来事を乗り越え、妻の悲しみを覆い包んだ良き夫、良き家庭人としてのドボルザークであった。

ドボルザークは、1873年の32歳の時に、アンナ・チェルマーコヴァーと結婚する。ドボルザークの人気が高まっていくその最中において、結婚して間もない、1875年に長女を失い、1877年には、次女そして長男を亡くするという思わぬ不幸が訪れた。三人の子供たちを立て続けに亡くしてしまうという悲しい出来事が夫婦を襲ったのである。

このとき、子供たちの冥福を祈り、作曲した宗教作品の傑作が「スターバト・マーテル」である。深い悲しみを克服し、穏やかな平安を取り戻していこうとする祈りに満ちた教会音楽である。

この試練を乗り越えたドボルザーク夫婦に、神はそののち二男四女を与え、家庭生活の喜びと平和を与えてくれた。妻アンナとの生活は深く強い愛の絆で結ばれ、お互いに信頼に満ち溢れていた。

ドボルザークの旺盛な作曲生活を背後で支えた最大の要因は、妻アンナそして子供たちの存在であったと言っても言い過ぎではないだろう。

ドボルザークの作品の多くが、優しく美しい情感に包まれていると感じるのは、おそらく、彼の家庭人としての愛情生活の特質が、作品に中に反映しているからなのかもしれない。

ドボルザークは、ジャネット・サーバー夫人からの招請を受け、1891年にアメリカ大陸に向かった。アメリカの音楽後進性を欧州並みに高めてほしいというサーバー夫人の思いを受けて発展目覚ましい新大陸に渡り、そこで見聞するすべてのことに感動を覚えた。

特に、黒人音楽の素晴らしさを認め、アメリカで多くの白人たちが蔑んでいた音楽に大きな価値を与えたのである。「黒人霊歌の中には、偉大な音楽家の必要とするすべてがある」として、黒人霊歌から彼自身も多くのインスピレーションを受けた。

九回にわたる英国への訪問、そしてアメリカでの音楽活動、という側面を見ると、ドボルザークは英米との相性がよく、彼自身、カトリックのチェコにありながら、宗教改革の黎明期を飾ったチェコのヤン・フス(1369-1415)に敬意を表していたことからも、プロテスタントに対する偏見が全くなかった。

妻と六人の子供たちを愛する偉大な家庭人は、宗教の壁を越え、ヨーロッパを越えて、アメリカを愛することも、黒人を愛することもできる「ボーダーレス・マン」であったと言えよう。人類一家族を夢見ていたのだろうか。



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