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預言書を解読する男 その4【最終回】

悪循環社会の悪循環なるものを断ち切る。これは非常に立派な問題意識であり、テーマである。何しろ、講演者自身も語ったように、人類歴史そのものが悪のスパイラル運動をしているようなもので、果てしない悪循環の歴史なのである。悪循環をいかに終わらせるか。それに対する答えを出してくれたら、この講演者は間違いなく尊敬に値する人物である。そういう期待感を込めて次の言葉を待った。

「人間は悪というものから容易に離れることが出来ない。そのために、繰り返しの輪廻が起きる。孫衛門はそう言っているのですが、これはどういうことか。その意味を探る必要があります。

宗教的に言えば、人間としての霊性を完成するまでは、輪廻が続くと見なければなりません。不完全な魂で他界すれば、再び、地上に戻って来て、本来の人間の姿、すなわち、仏性あるいは神性というものを、地上の生活を通してもう一度、修行をし直し、磨き上げ、完成しなければならないということになります。しかし、霊性の完成を果たせなければ、また、再び、地上に舞い戻って来て、修行のやり直しということになります。完成するまで、地上での魂の修行が待っており、あの世からこの世への輪廻が何度でも繰り返される。悪というものから離れられない限り、人間としての完成がないわけですから、輪廻の繰り返しがある。これが孫衛門の考えであります。

もっとも、人間の完成なんてあるのか。人間の完成とは何だ。何を基準にして、完成だとか完成でないとか言うのだ。こういう根本的な疑問が呈示されれば、なるほど、今,言ったような輪廻思想自体に意義を見出しにくくなるということも事実であります。

そのことに関しては、また、別の機会に掘り下げて論じることにしたいと思いますが、今日の講演では、一応、人間としての完成はあるとしておきます。そして完成の基準は「思いやる精神」「愛の精神」としておきます。言い換えれば「愛の人格」、「慈愛の度合い」の成熟度をもって、人間の完成と呼んでおきたいと思います。」

孫衛門の『人の業いと深きゆえ、悪から離るるを得ず、果ては繰り返しの輪廻じゃ』という言葉を巡って、輪廻観の解説が続けられているが、ぼくは、聞きながら、孫衛門の言葉を自分なりに整理してみた。人はなかなか悪から離れられない(分かっていてもしょっちゅう悪事に手を出す)、その理由は業が深いからだ(人間は非常に罪深い存在である)、そういう人間はあの世で苦しむだろう(魂が穢れているゆえ)、これじゃいけないと悟ったあの世の霊たちは自己の霊性を高めるために再び地上に舞い戻ってくる(今度こそは一生懸命、善行を積んで魂を磨きあげるぞ)、しかし、完成ままならず、またあの世へ、そして、また地上へと、こんな具合に天上と地上の両世界の往復運動をやる羽目になる。ざっとこういうことか。これが『繰り返しの輪廻』か。そんなことを心で整理していたのだが、講演者の口調が一段と高くなってきたことをぼくは感じた。

「悪循環社会を断ち切るためには、先ほども申し上げましたように、悪因縁を断ち切るということ、これ以外にないというのが私の確信であり、また、本日の講演の核心でもあります。そして、悪因縁の中でも、中心的な悪因縁、親分格の悪因縁とでも言いますか、そういうやつと、そうでない悪因縁、こちらは子分格の悪因縁になりますね、そういうものがありますので、とりわけ、中心的な悪因縁、根本的な悪因縁、親分格の悪因縁を除去することが大切であると申し上げたい。」

ほとんど、話の中心は、悪因縁論へと移ってきているようだ。ぐるぐる回りの輪廻論が、悪因縁を除去できないところからきているとするのであれば、当然、最後は悪因縁論にならざるを得ない。結局、悪因縁を断ち切ることが、悪循環とのお別れになり、その結果として、恒星のような輝きを発する社会になるのだというのであろう。これで、ほとんど、講演者の趣旨は尽きるのではないかと思われた。

「格差社会の悪循環は、たとえば、南北問題においては、先進諸国が途上国家群に対して、本当の意味で、思いやりを示してあげられないことにあり、それどころか、資源を安く買いたたいて商品を高く売りつける、つまり、二重の搾取を行っているということが、縷々言われてきております。欧州列強の植民地経営というものは概してそういうものであったと申せましょう。

自国の発展はよろしいが他国の発展はよろしくない、自分が金持ちになるのはよろしいが他の人が金持ちになるのはよろしくないというケチくさい考え、みんなしあわせになりましょうという思いがない。こういう精神を自己中心と呼びますが、どうしたわけか、人間というものはこの自己中心の呪縛から容易に逃れられない宿命にあるような気が致します。これがまさに業というものの深さであると言えましょう。

また、中東紛争の中心となっているイスラエル・パレスチナ紛争は、土地争奪戦を直接の契機としながら、背後にイスラエル支持の英米、パレスチナに同情的なアラブ諸国というかたちで、キリスト教とイスラム教が宗教戦争を展開するような状況に発展してきている。特に、9・11事件以後、その核心部分には、イスラム教とキリスト教のぶつかり合いみたいな双方のファンダメンタリズム、根本主義の相克作用といった面が見られる。結局、宗教戦争の根本には、「我が神尊し」の「我が神」中心主義があり、それもまた、お互いの宗教エゴのぶつかり合いによって宗教戦争に繋がりやすい。身内には愛を示すがよそ者には冷たい態度をとる。これが戦争のもとです。

もし、本当の宗教というものがあるとすれば、身内にもよそ者にも、等しく愛を示すことができなければならない。そうでなければ、宗教としては失格である。エゴに落ちた宗教は宗教ではない。平和を叫びながら戦争をする宗教は宗教ではない。こういうことになろうかと思います。」

悪因縁論の根本に人間の根強い自己中心、エゴというものがある。そう言いたげである。個人のエゴから始まって、社会のエゴ、国家のエゴ、宗教のエゴ、ほとんどあらゆるレベルにおけるエゴのオンパレードである。世界はエゴの総和である。世界をシグマ・エゴと呼んでもいいくらいだ、という話なのであろう。エゴとエゴがぶつかって話がかみ合わなくなる、そうして争いが起こり、戦争が始まる。

そうは言っても、もう一方に、心やさしい人々がいることも事実である。みんながみんなエゴ人間ではない。ただ、戦争や争いを巻き起こす世界の負の部分に目を向けた場合、そこには必ずエゴがあるということだ。そして、エゴの強さの裏には、激しい妬みや嫉妬というものがある。エゴ人間は妬み嫉妬も人一倍強い。優越感に浸ろうとする欲望が強い。自分の幸福には満足するが、人の幸福はそれほど簡単には喜べない。特に、大きな組織の指導者とか国家のリーダーといった人士は、一見すると人格的に振る舞っているように見えるが、その裏には、己の権勢を示そうとする強力なエゴが潜んでおり、それゆえに、嫉妬深いところも人一倍大きいといったことも大いにあり得るのである。トップに立つ人々のこういった精神的な闇が平和をもたらしにくくしている元凶であるのかもしれない。指導者同士は仲良くなれない。最後には、経済覇権、政治覇権、言論覇権、領土覇権など、「覇権」を争い、権力闘争となって、敵同士になる場合が多い。

ぼくの思考が、取りとめもなく、いろいろな考えを巡らしているうちに、静川氏は、次のように語った。

「一体、自己中心とかエゴというものはどうやって人間の中に出てきたのであろうか。このように考えるのであります。夫婦が心から愛し合うとき、そこにはおそらくエゴというものはない。母親がわが子を慈しみ育てるとき、そこにはエゴなるものは存在しない。愛し合う世界には、純粋に分かち合い喜び合うという世界があるのみで、そこにはエゴがない。エゴがあれば愛し合うことは難しい。これは間違いのないところであろうと思います。」

ここまでの話を聴いて、ははーん、これが結論だな、とぼくは思った。悪循環を断ち切るための根本治癒法は、人間同士、心から愛し合い信頼し合うことだ、そうすれば悪因縁を切り、悪循環から抜け出すことができる、ということなのであろう。

静川太三郎は、演壇に置かれた水を一杯、二杯飲んで、のどの調子を整え、こう言った。

「私の言わんとするところは凡そ察せられたことだろうと思いますが、人間が愛し合い、信頼し合う、ということが出来てさえいれば、これほど複雑な社会は出来ていないだろうということです。恒星の輝きとは、まさしく、愛の輝きと考えていただいてもよろしい。美空ひばりさんが「愛燦々」という歌を歌っていますが、私が言いたいことは「愛燦々社会」を創ろうということであります。

そこで、少しばかり、恒星の成り立ち、恒星の特徴といったものを、もう少し掘り下げて語ってみたいと思うのですが、恒星というやつは、例えば、太陽を例にとりまして、見てみますと、太陽は地球の直径の109倍の直径、地球の質量の実に33万3000倍の質量ということでありますから、大きさ、重さからしてバカでかい。

太陽の光球の中心には太陽核があり、この中心核において、熱核融合反応というものが行われている。これは水素がヘリウムに変換されるという核融合反応であり、この反応の際に膨大なエネルギーが生み出される。難しく言えば、いろいろあるのですが、とにかく、水素が融合してヘリウムになるという融合から発生するエネルギーが、筆舌に尽くしがたいエネルギー量であることは注目に値すると言えましょう。」

静川氏は、太陽の熱エネルギー、光のエネルギーの発生メカニズムを簡単に説明したが、特に、水素が融合してヘリウムに変換される際に発生するエネルギーの膨大さに注目を向けさせた。

「わたくしが申し上げたいのは、融合の際に生じるエネルギーの大きさであります。核分裂ではなく、核融合というシステムによって太陽の途方もないエネルギーが作り出されている。融合こそが偉大なるエネルギー、大いなる力を生み出す方法なのです。恒星が恒星である理由、恒星の輝きが生まれる理由、これを説明するとすれば、わたくしは躊躇うことなく、融合というキーワードを真っ先に挙げることにしています。」

もうほとんど結論が述べられたと言ってよい。言いたいことはこうだ。分裂社会ではなく、融合社会を作ろう。そうすれば、恒星の輝きを持った社会ができるはずだ。分裂は、すなわち、悪因縁というものであり、融合は善因縁である。融合を心掛ければ、悪因縁を切ることができて悪循環も止まるだろう。人間社会における融合の意味する内容は、具体的には、「愛し合うこと」、「信じあうこと」、この融合精神によって、「愛燦々社会」を作ろう、こういうことである。

太陽における物理的な科学法則と人間社会における精神的な人倫法則を、対比して説明しようとする試みに、どの程度の妥当性があるか、ぼくは知らないが、それほど気にはならなかった。

講演者が、先祖の孫衛門に対する啓示の主を憶測し出したときには、一体どうなるのかと心配になり、非常に危うい時間帯であったが、これで、何とか話は纏まったようだ。静川太三郎の言わんとすることは、ほぼ理解した。分けれ争うのではなく、一つになって喜びの社会を作ろうということである。

結局、表題から、大きく、二つのことについて主張がなされた。一つは悪因縁を断つという主題、もう一つは融合のエネルギーこそ偉大な力であるというテーマ、これが組み合わさって話が展開されたのである。

そこで、少し疑問に感じたことは、悪因縁を断つということと融合の力(恒星の輝きの原因)ということとの関係性である。このことが少し釈然としなかった。敢えて言えば、悪因縁は融合の力を阻害するもの、分裂を引き起こすものと捉えられるが、その分裂を引き起こす力の正体が何であるのか、それが人間のエゴに由来するものと考えたとしても、人間のそのエゴはどうやって生じたのか。エゴはもともとあるもので、どうやって生じたかなどと原因を問うこと自体がおかしいのか。それとも、エゴ発生の原因とメカニズムがはっきりと存在すると考えるべきなのか、すなわち、講演者が言うところの根本的な悪因縁が明確に存在するというのだろうか。最後の問題はそこら辺になりそうであった。

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