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「世界制覇」その4

僕らは、アメリカ、ヨーロッパ、アジアは、韓国、台湾、フィリピン、インドネシア、タイ、南米は、ブラジル、アルゼンチンなど、世界中をコンサート・ツアーで周ったが、その熱狂的な歓迎には圧倒されっぱなしであった。

神秘的な雰囲気を放つ月舘秀平は、とりわけ、背中まで伸びた長い髪を揺らしながら、ピアノを弾く姿を聴衆に見せるのであるが、彼の貴公子然とした格好良さと美貌に、世界中の女性たちが「月舘は私のものよ」と言わんばかりの悲鳴を上げた。

そのような超人気の中にあっても、月舘本人は、至って、冷静沈着で、調子に乗ることもなかった。そのクールさが、また、堪らなかったということか。

ぼくは、月舘と仲が良い。月舘がある日、アルゼンチンでのコンサート・ツアーで、ホテルの二人部屋で同席になったとき、月舘は、彼が高校三年のとき、両親が別れたいきさつを語ってくれた。

「別かれたのは、直接的には、ぼくのことが関わっているのだ。父は、桐朋学園大学の教授で月舘英太郎という、音楽の世界では知らないものはない人だよ。ぼくが東京芸大に合格したとき、それを蹴って、スピリット・ジャパンのバンドに加わったとき、猛烈に反対したんだ。そのとき、ぼくと父は考えが激突し、大喧嘩になった。」

「ふーむ。そういうことだったのか。知らなかったよ。」

「母は、基本的には、父と同じ気持ちだったのだが、息子がこれだけ言うのだから、認めてあげましょうということで、ぼくをかばう立場で発言した。それで、父がカーッとなり、父と母が言い合いっこになって、お前の教育が悪かった、息子の教育に失敗した、などと母を責め始めた。」

「なるほど。」

「母も負けてはいない気持ちになり、言い返した。あなたがそこまで言うのなら、わたしも言うわ、と切り返し、あなたの権威主義的な態度や言葉で、わたしはじっとこの家で我慢して今まで来たが、秀平のことで、すべてが私の責任であるというのなら、もう、これ以上、耐えられません、離婚しましょう、と母が言った。」

「いろいろ、堪ったものがあったということだね。」

「その日から、忽然と、我が家から、父の姿が消えた。どこで暮らしているのか、全く、つかめない。でも、簡単な書置きが見つかったんだ。『離婚は、色々な手続きがあり、時間がかかる。先ずは、別居がお互いによいだろう。』と書いてあった。従って、正確に言えば、法的に成立した離婚ではなく、別居状態になった父と母だというのが正確なところだよ」

「そうだったのか。離婚しているわけではないのだね。だったら、まだ、可能性は残しているよ。父が戻ってくるということもあり得る。」

いろいろなことを、語ってくれた月舘秀平は、彼の家のことを理解する人間を一人得たことで、心の重荷が少しは取れたのではないかと、ぼくは思った。

掛川のコンサート会場に密かに月舘の父が足を運んだのは、バンドの音楽性、バンド仲間のチェック、とりわけ、コンサート後半で、月舘がどういうピアノ演奏を見せるのか、など、音楽的見地から、息子の活躍もさることながら、音楽の中身を確認しておきたかったということなのだろう。

何度もうなずき、微かな笑顔を浮かべていたという月舘秀平の父の姿は、ゴーサインのしるし、「よし、それでいけ!」という合格点が、微かな笑顔の中に表されていたのだと解釈できる。ぼくは、月舘英太郎は、必ず、家に戻ってくると確信した。息子の実力を認めたのだ。

さて、ロンドンでのコンサートを終えて、バンドの五人がテレビ出演することになったときのこと、司会者の他に、ゲスト出演で招かれていたのが、ローリング・ストーンズの面々であった。ミック・ジャガーなど、大いに老齢となっているが、そのロック魂は少しも変わらず、精神年齢は30歳辺りで停止したのではないかと思われるほどであった。

音楽をやる者たちは、基本的に、精神の若々しさは、いくら肉体の方が年老いたからと言って、失われるものではない。

昔のように声が出なくなっても、昔のままの声はいつでも出せると思い込んでいる人種がミュージシャンたちなのである。

このテレビ出演で、英語がペラペラの河原博司が、われわれ四人の分まで、しゃべりまくってくれたが、ミックと河原の会話が、断然、面白かった。

「スピリット・ジャパン、この度のロンドン・コンサート・ツアー、よくやってくれたぜ。君らの音楽は、よく分からないが、何か特別なものを感じるよ。いい音楽だ。」

このように、ミック・ジャガーが誉め言葉をもって、スピリット・ジャパンのことをコメントしたとき、河原博司はこう言った。

「ロックは、70,80になってもやれる音楽と見てよいですか。ミックさんの姿を見ていると、ロックは永遠にやれるさ、という言葉が返ってきそうですが。」

「よく言ってくれた、このミックの気持ちがまさにそうなんだよ。ロックは永遠さ。おれは死ぬまで、コンサートを続けるぜ。あの世に逝っても、あの世でロックを歌うぜ。」

「ミック・ジャガーではなく、ロック・ジャガーですね。流石です。『転がる(ローリング)石(ストーンズ)には、苔が付かない』とはよく言いました。『ロッキング(ロックをやる)ジャガーは、いつまでも若々しく、苔むすことはない』と、確か、シェークスピアが言ったような気がするのですが。」

「シェークスピアが言ったという話は聞いたことがないなあ。君はよく冗談を言うね。ミックに対して、そういうことをシャーシャーという人間には会ったことがないよ。長い間、一緒にやってきたキース・リチャーズぐらいだな、ちょっとした冗談が言えるのは。」

こんな調子の会話を、延々としゃべれる才能は、河原博司をおいてほかにいなかった。司会者が割って入り込んでこなければ、どこまでも、ふざけた話が続くのである。しかし、これは河原博司の一面であって、もう一面の繊細な人間洞察の力は鋭く、侮れなかった。

ロンドン・コンサートが終わって、宿泊先のホテルの近くのパブで、スピリット・ジャパンの打ち上げをやったとき、月舘の横に腰を下ろしたのが、河原であったが、そのとき、河原は小さな声で月舘に言った。

「掛川のコンサートで、君の父が舞台の近くで君を見ていたのを、君よりも早く、気づいていたんだ、実は。ぼくはきみの父親の顔をよく知っていた。どうしてかって。ぼくの父である河原繁次郎(しげじろう)は、商社マンで、アメリカ、ヨーロッパを転々と渡り歩いたが、君の父、月舘英太郎とは中学、高校が一緒だった。無二の親友だ。初めて聞くだろう。

あの日、君の後半の始まりのピアノ演奏を聴いて、すぐにコンサート会場をあとにした君のお父さんの姿、非常に、満足げに会場を去った君のお父さんの姿を、ぼくは見届けた。そのことを、はっきり言えば、息子の選択は正しかったということだ。

君の父が自分の間違いを認めた瞬間だった。そのことを、ぼくの父、繁次郎に語ったのだ。それをぼくは父からはっきりと聞いた。そういうことだよ。」

「本当に、父は僕のことを認めたんだね。嘘ではないね。」

「本当だとも。嘘なんか言わないよ。繁次郎に語る時の英太郎は、常に、真実だ。それほどの信頼し合う仲だよ。」

「もっと、すごいことを教えよう。君のことで、両親の別居の話が出ただろう。あの日、夜遅く、ぼくの父を訪ねてきたのが、君のお父さんだ。妻とまずい関係になった。今夜、泊めてくれと言ってきた。もう家には帰れない、帰らないと言った。

そして、掛川のコンサートを開催した次の日、君のお父さんが我が家にやってきて、繁次郎に言った言葉が、『家に帰ろうと思う、心から妻と秀平に謝りたい』という言葉だった。」

「えっ、何だって!家に帰ると言ったのか。それは本当か。本当ならばうれしいよ。ぼくの母も、最近、お父さんに悪いことをした。意地を張った私が悪かった。秀平、ごめんね。というようなことをしきりに言うようになった。帰りを待っているのだ。」

「どうやらタイミングが来たようだな。もうすぐだよ。帰って来るよ。」

こういう会話を、ロンドンのパブで、月舘秀平と河原博司は交わし、前途が開けるのを予感したが、日本に帰り、家に着いた月舘秀平を驚かせたのは、父が玄関先で、息子を出迎えた姿であった。河原がロンドンで言った通りであった。

「おめでとう、秀平。よく頑張ったんだね。お父さんが悪かったよ。お母さんとは仲直りしたよ。世界に誇ることのできる息子をもって、誇らしいよ。」

「お父さん!」

そう言って、二人は駆け寄り、しっかりと抱き合った。そこに、母が出てきて、

「これからは、一緒に、仲良く、暮らしましょう。」と言った。

「そうだな、お互いに許し合って、幸せに暮らそう。お母さん、本当に悪かったよ。お父さんを許してくれ。」

「それは私が言うことよ。意地を張ったりしてごめんなさい。」


世界制覇を果たしたロック・バンドの背景にも、色々なことが起きていたのであった。その典型が、世界を酔わせている美貌と才能の天才ピアニスト、月舘秀平の家族に起きた悲劇であったが、結果的には、すべてが良い方向に導かれた。

今日も、ファンの熱狂に包まれて、月舘はリストの超絶技巧のように鍵盤の上を走り回る指の感触を味わいながら、心の中で叫んでいた。

「神様、ありがとうございます」と。



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