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上杉鷹山 その1


上杉鷹山は、1751年(宝暦元年)、日向の高鍋藩の藩主、秋月種美の次男として江戸の藩邸で生まれた。実母が早くして亡くなったことから、母方の祖母の手元に引き取られ、養育された。この祖母(豊姫)が、米沢藩の第4代藩主、上杉綱憲の娘であったことが縁となり、1759年(宝暦9年)、10歳で米沢藩の第8代藩主、上杉重定の養子になり、翌1760年(宝暦10年)8月、重定の世子(世継ぎ)となった。

米沢上杉藩の財政が逼迫状態にあったために、先代の上杉重定が徳川家への領地返上まで考え込んだ、そのような困難状態のときに、上杉鷹山は15歳で米沢藩の第9代藩主となったのである。

上杉鷹山は、米沢藩の財政改革に取り組み、上杉藩の再生のきっかけを掴んで、最終的に偉大な成果を収めたので、江戸時代屈指の名君として知られることとなる。

1802年(享和2年)、剃髪して「鷹山」と号するようになるが、この号は、米沢藩領の北部にある白鷹山からとったと言われている。いくつかの名前を彼は持っているが、鷹山と号する前までは上杉治憲である。

出羽国の上杉藩は戦国時代の英雄である上杉謙信を藩祖とする歴史上有名な藩である。第二代の上杉景勝は、上杉謙信の姉の子であり、豊臣秀吉の五大老の一人として、1598年(慶長3年)、会津に120万石を与えられた。景勝は、家老の直江兼続に米沢30万石を与え、景勝自身は会津の若松城(鶴ヶ城)を居城とした。

上杉景勝は、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍につき敗れたため、1601年(慶長6年)、米沢藩は120万石から30万石の4分の1に減封されてしまうのだ。このとき、景勝は藩士を解雇せずに藩士の俸禄を3分の1にしたが、領地の移封(国替え)がなされたため、米沢藩は常に財政難の状態となり、倹約が必要な国になったのである。

さらに、第4代上杉綱憲のとき、禄高はあらたに半分の15万石に減封されたために、会津時代の120万石から8分の1まで減らされるという有様だった。幕府が米沢藩を徹底的に追い詰めている様子がうかがえる。

当然、質素倹約も必要であることは間違いないが、ここまで石高が減封される中、大きな問題は、上杉謙信を藩祖とする名門意識、伝統と家柄を死守する生活態度およびそれにかかる経費などの見直しが、一向にされなかったということが、まさに深刻な課題であった。

守旧派の意識改革が行われなかったことが、米沢藩を窮地に追い込んだことは明らかである。

米沢藩では、農村の疲弊、1753年(宝暦3年)の寛永寺普請による御手伝いの出費、さらに、1755年(宝暦5年)の最上川洪水による被害が米沢藩に与えた財政悪化など、ダメージの大きい出来事が続く。

第8代藩主、上杉重定は幕府に藩領を返上し、領民救済を幕府に委ねるというところまで思いつめるが、尾張藩主の徳川宗勝に諫められて、取り止めるに至った。

このように、上杉鷹山の登場の背景には、極限的に行き詰った財政難の苦境を打破するために、米沢藩に養子入りしたという何とも言えない宿命があったように思われてならない。

米沢藩は、第二代藩主の上杉景勝のときには、14~15万両の軍資金があり、第三代藩主の綱勝のときにもまだ6万両の貯蓄があった。しかし、第四代の綱憲のときには、借金財政に陥り、18世紀中ごろには、借財が20万両に累積する事態になっていた。藩士たちの生活のみならず、領民の生活もまた、ますます苦しいものになっていたのは言うまでもない。

石高が15万石でありながら、初代藩主の景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6000人を召し抱えたまま、人件費が藩財政に与える負担は大変なものであったことは明白である。

こういう深刻な財政難を、藩内の家臣の中から事態を打破すべき提案を出し、守旧派の側近政治の乱れを批判する人物が現れるとしても不思議ではない。

このような改革の意図を持っていた森平兵衛の動きを察知した守旧派は、竹俣当綱(たけのまたまさつな)を中心に森平兵衛を暗殺し、抹殺したのである。森に代わって、竹俣当綱が改革を担当するが、改革遂行に臨んでみると、森平兵衛はそれほど間違ってはいなかったことを悟る。

上杉鷹山が、1760年(宝暦10年)、米沢藩主の上杉重定の養嗣子となり、江戸の桜田の米沢藩邸に移り住んだそのときまでには、鷹山は、相当、君主になるための素養を磨いており、学問を重ね、学徳を積んだ逸材であった。

日向の高鍋藩において、鷹山の養育係であった三好善太夫がその一人であり、兄の種茂も大きな影響を与えている。

1766年、治憲と改名した鷹山は、翌1767年(明和4年)、上杉重定の引退・隠居を受けて家督を継いだ。そして、重定の娘(幸姫)を正室に迎え、側室にはお豊の方が入った。

上杉藩の窮乏を憂えた藩士に藁科松柏(わらしなしょうはく)がいる。彼は医者の子であるが、医業の傍ら、江戸の自らの塾で経書と史書を教え、優れた弟子を輩出した。竹俣当綱、莅戸善政(のぞき・よしまさ)、木村高広、神保綱忠らがいて、彼らがのちに鷹山の上杉藩における藩政改革の前期を背負って、中心的な役割を果たすのである。

松柏は江戸で会った細井平洲の学徳に感銘を受け門下生になるが、藩主の重定に進言し、細井平洲を鷹山の師として迎え、鷹山の教育は細井平洲に託されることになった。1764年(明和元年)11月、平洲37歳、鷹山14歳のとき、桜田邸において毎月6回の儒教精神を藩主の持つべき特性として教えを受けるのである。

細井平洲こそ、鷹山に改革の教えを授けた師匠として記憶されるべき実学の大家であったと言わなければならない。

尾張の国の知多郡に農家の次男として生まれ、17歳で尾張藩の家老、竹腰氏の家臣である中西淡洲に師事、のちに私塾櫻鳴館を開いた人物である。理論にとらわれない独自の見地から民の苦しみを救う儒教の実学的な展開を講義で語った。

鷹山が人づくりを重視し、さまざまな改革で藩の財政を立て直し、名君と呼ばれるようになったのも、細井平洲によるところが大きかったとされている。鷹山の藩政改革の基本には、平洲が示した「根本三ケ条」があるのだ。

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