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加藤を待ちながら(前)
加藤匠馬のプロ入り初ホームランを、ゆみ子はZOZOマリンスタジアムで観た。
2021年9月29日。千葉ロッテマリーンズとオリックス・バファローズの「首位攻防」第2戦。首位のマリーンズが昨日負けて、ゲーム差は「2」に縮んでいた。
夜空の漆黒がグラウンドのまばゆさをいっそう際立たせていた。
一回裏、荻野貴司のファウルボールがこちらへ向かってきたと思うと、スタンドのなかで変則的に跳ねてゆみ子の目の前に飛んできた。
「ぎゃっ」両目をぎゅっとつぶって頭と顔を両手で覆った。
右隣に座っていた夫が咄嗟に左手を伸ばす。
「ほい」と手渡された。ゆみ子は初めて硬球に触れた。持ち重りがする。こんなに固いものを打ったり投げたりするんだ。
マリーンズの選手たちは「チーバくん」色のユニフォームを纏っていた。右袖に『成田市』のワッペンが縫い付けられている。
二回裏2死一塁。カウント2-1。ZOZOにしては珍しく、風がほとんど吹いていない。
加藤がバットを振り抜いた。
「ウソ!?」スコアブックを付けていた夫が、目で打球を追いながら言った。
打球がなめらかな軌道を描いてレフトの「ホームラン・ラグーン」に吸い込まれるのを、ゆみ子も観た。この硬いのが、あんなふうに飛ぶんだ。
ゆみ子はバッグから「選手名鑑」を出した。マリーンズの捕手欄を開いたが、加藤は載っていなかった。そうか、翔平との「加藤-加藤」トレードは6月だったっけ。
中日ドラゴンズのページには「175cm/76kg」とある。身長はわたしと夫の間くらいだわ、とゆみ子は思った。加藤はプロ入り6年目だった。
「加藤匠馬選手、今季第1号。プロ入り初ホームランでございます」谷保恵美さんの柔らかなアナウンスが流れた。球場全体が温かな空気に包まれた。
ゆみ子が初めてZOZOマリンへ来たのは、2019年の春だった。夫が知り合いからチケットを2枚譲ってもらったのだ。
試合を観ていて疑問に思うことがあると、ゆみ子は隣の夫に質問した。
「ほら、いま、○アウトでランナー○塁だろ? そうするとセンターの選手の位置が、」
「たぶん、ほんとならキャッチャーはこうしたかったんだけど、」
基本的なことも、込み入ったプレーでも、夫はわかりやすく説明してくれた。
野球って難しいな、とゆみ子は最初に思った。やがて面白さや奥深さも、少しずつわかるようになっていく。
その日からマリーンズの全試合を見ているが、現地観戦は多くて年間5回ほどだ。だから加藤第1号の目撃は僥倖と言ってよかった。
加藤が第2号を10月15日に打ったとき、ゆみ子は夕食の支度をしながらテレビ中継を見ていた。ZOZOマリンで、相手は福岡ソフトバンクホークスだ。
五回裏、2死走者なし。カウント2−1。加藤が外角直球を上から叩くと、打球は今夜もレフトのラグーンで弾んだ。第1号よりも少しだけセンター寄りだった。
二塁を回ったところで加藤が声を上げた。顔が少し紅潮していて、本塁を踏んだ後のハイタッチには感情が溢れていた。
やっぱり責任を感じていたんだな、とゆみ子は思った。
マリーンズの先発、岩下大輝はコントロールに苦労していて、五回表にバッテリーミスで1点を先制された。記録は「暴投(投手のエラー)」だが、解説者に言わせれば「捕逸(捕手のエラー)」に近いらしい。
ベンチの奥に戻った加藤が、いま使ったばかりのバットの真ん中を両手でぎゅっと握り、先端の太い部分を額に強く擦りつけた。目を閉じたまま全身を小刻みに震わせる様に、ゆみ子は観入った。
『これからカトタクを応援することに決めたぞ』ゆみ子は夫にLINEを送った。
『そうか。珍しいな』すぐに返信があった。『俺もradikoで聴いてたよ。よう打ったの』
加藤はこの年、6月下旬の加入から57試合に出場した。井口資仁監督や解説者はリードを褒めた。小島和哉は良い投球をしても勝ち星に恵まれなかったが、加藤と組んでプロ初完投や初完封を達成した。
打率は1割を切っていた。105打数10安打。そのうち2本がホームランだった。
ゆみ子が特定の男性を応援するのは、夫を除くと、中学時代のガダルカナル・タカ以来だ。
加藤が第2号を打つ4日前、マリーンズはドラフト会議で松川虎生を1位指名していた。「超高校級」の捕手だ。
2022年のキャンプ初日から、井口監督は松川を絶賛した。開幕一軍、開幕スタメンの可能性も示唆し、それは現実となった。2022年、加藤は二軍で開幕を迎えた。
4月に佐々木朗希が完全試合を達成した。主役と共に、女房役の松川もクローズアップされた。
松川は一度も抹消されることなく1シーズンを完走した。前年57試合123打席あった加藤の出場機会は、24試合10打席まで減った。
加藤を観るために、ゆみ子は二軍の試合もチェックするようになった。16時になるとNPB(日本野球機構)の公示(選手の登録・抹消)を見る癖もついた。
一軍と二軍のプレーの質の差に何となく気付くことが増えた。帰宅した夫にその場面を話すと、よく観てたな、もうそんなとこまでわかるん? と目を丸くされた。
11月のファン感謝祭のイベント試合で、加藤がマウンドに上がった。加藤は最速146キロの直球で藤原恭大を3球三振させた。加藤は楽しそうだった。
吉井理人新監督が来季はもっと一軍で使ってくれますように、とゆみ子は思った。(「後」に続く)