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加藤を待ちながら(後)

加藤匠馬の無償トレードが発表されたのは、2022年の12月26日だった。千葉ロッテマリーンズから中日ドラゴンズへ、1年半で戻るのだ。

「もはや『要らない子』ってこと?」ゆみ子は思った。
「無償」という言葉を使って、加藤のことが冷笑的にSNS上で書き込まれていくのを、ゆみ子は歯痒い思いで眺めた。

「来月、2、3日家を空けてもいいじゃろか」2023年の松が取れるころ、ゆみ子は夫に切り出した。
「うん、構わんよ。お義母さんと旅行?」
「沖縄行きたいんだが。一人で」
「沖縄? ん? お、キャンプか!」
「うん」
「いいな。チケット取れるんか」
「まだわからん。もし取れたら行かせてください」

一泊2日で飛行機とホテルは確保できた。もっとゆっくりしてきていいんだぞ、と夫は言ってくれた。
一人旅も、キャンプ見学も生まれて初めてだ。

1月31日。一通りの買い物を済ませたゆみ子は、駅前のATMへ行こうと思った。15時半だ。

魔が差す、ってああいうことなのねと、ゆみ子は後になって思う。

対向車は来ないはずと、横断歩道を待たずに信号待ちの車の間を横切った。センターラインを跨いだ瞬間、銀色のセダンが目の前に現れた。自分にぶつかると分かってゆみ子はすごく後悔した。コマ送りで真っ黒なアスファルトが迫ってくる。叩きつけられた左肩に激痛が走った。額も打った。一瞬仰向けになって青空が見えた気がした。女性の悲鳴が聞こえる。セダンから飛び出してきた初老の男性が左腕を引っ張って立たせようとしたので、今度はゆみ子自身が悲鳴を上げた。

手術は6日後に決まった。
「ここに薄い金属のプレートを入れます」短くなった赤青鉛筆の赤い方でディスプレイを指しながら担当医が言った。ゆみ子の左肩のレントゲン写真だ。若いのに珍しいなと、ゆみ子は思った。鉛筆は青の方が減りが早かった。
「リハビリの方が辛いと思います」医師は言った。「左腕はもう真上には上がらないでしょう。良くて30度手前くらいかな」

「せっかく沖縄行きのチケット取れたのになあ」夫が言った。
「カトタクには縁がないのかも」ゆみ子は笑った。「ベッドの上で配信観るわ。WI-FI もしっかりしてるし」

2023年、加藤は開幕メンバーに選ばれたものの、6月下旬に抹消されてから再び一軍ベンチへ戻ることはなかった。
出場10試合、8打席で打率.000。
ドラゴンズでも「要らない子」じゃん。ゆみ子は鬱々とした毎日を過ごした。
他方では応援するマリーンズがシーズン後半に粘りを見せていたが、それはそれだった。角中勝也が不沈戦艦のようなロベルト・オスナからサヨナラホームランを打っても、藤岡裕大が「幕張の奇跡」を起こしても、心の隅にぽっかりと空洞が口を開けたままだった。試しにそっと手を差し入れてみると、そこは驚くほどひんやりとしていた。

2024年も立浪和義監督は加藤を開幕一軍のベンチに置いたが、ゆみ子は「どうせ」と高を括っていた。すぐ落とされるんだし。

ゆみ子の思いとは裏腹に、加藤は一軍に残る。それどころか、先発でマスクを被ることも増えた。

すると、ゆみ子の体の調子が狂うようになった。
17時くらいにスタメンだとわかると、動悸が激しくなり、体がずんと重くなって買い物に出るのも億劫になった。
途中出場の日は家事をする手が完全に止まった。交代後に追い付かれたり逆転されたりすれば、横になったまま起きる気力を失った。そんな夜は帰宅した夫が黙って米を炊き、塩分を控えた夕食を準備した。

この2年は一軍での出場がほとんどなかったから、加藤を観るためのゆみ子の耐性のようなものが低下したのかもしれない。一方で野球好きの夫とマリーンズ戦を観続けてきたことで、野球への理解度が深化して、厳しさや怖さも感じるようになっていた。

事故の際に高血圧を指摘されて以来、ゆみ子は起床時と就寝時に血圧を測って記録することが習慣になった。キッチンテーブルに座り、心を落ち着かせ、黒い腕帯を静かに右上腕に巻く。ノートには、今年からその日の加藤の動向も書き添えた。

ドラゴンズが負けたり、良くも悪くも加藤が「やらかした」日は、試合終了からしばらく経った後でも、血圧の値は高かった。

4/12 対タイガース △2-2 スタメン。2点のリードを守れず8回に追い付かれる 131/82

4/25 対ジャイアンツ ●2-3 スタメン。6回表坂本勇人に逆転スリーラン浴びる 137/89

5/6 対ジャイアンツ ●1-4 8回表2死一塁から途中出場。岡本和真、坂本に連続四球、長野久義に走者一掃三塁打 142/94

5/15 対タイガース ●0-1 スタメン。延長11回表に近本光司のタイムリーで1点先制される 128/78

5/24 対スワローズ ●2-5 2-2の同点の10回表、ライデル・マルティネス−加藤のバッテリーに替わり、3点取られた。マルティネス初失点。 140/93

理想の値は125/75くらいだ。
パリーグとの交流戦が始まるころ、加藤の打率は1割を切った。
「石橋康太」。「打てる捕手」。SNSが若い選手の起用を求めて一層騒がしくなると、ゆみ子はタイムラインを追う手を止められない。

「『カトサ』(加藤サーチ)やめなよ。雑音はほっとけばいい」夫は言った。
「『プロスペクト』とか『UZR』が何様だって言うのよ。そんなもん、死ねばいい」悔しくて涙が出た。睡眠薬の力を借りる夜もある。

6/4 対ホークス ●2-3 スタメン。2-2の9回表に追加点を許す。得点には絡まないが、ライトオーバーの三塁打を打った。 128/82

6/14 対マリーンズ ○4-3 暴投を止められず、7回裏に同点にされた。 135/87

7/5 対カープ ○2-0 スタメン。髙橋宏斗が99球で「マダックス」(100球以内で完封勝利)。加藤2犠打。解説の阿波野さんがヒロインに加藤も呼ぶべきと言ってくれた。 110/70

ゆみ子は、加藤のプロ第3号を心待ちにしている。
血圧が爆上がりしてもいいわ、と思っている。(了)

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