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44機目「かかわり方のまなび方」
「かかわり方のまなび方」(西村佳哲 ちくま文庫)
「発酵」つながりでもう1冊。
僕たちが当たり前のように使っている「ワークショップ」とは、そもそも何か。
英語で「ワークショップ」とは、工房・作業所のこと、つまりハード(建物)のことだった。しかしわれわれは今日、イベントや会議などのソフトな意味として使っている。
「ワークショップ」が拡大解釈的に使われてきたのは、1900年代のはじめ、T型フォードが世界を席巻し始めた頃であるという。
つまり、
「ファクトリー(工場)ではなく」
というニュアンスが含まれているというのだ。
~~~ここから引用
ファクトリー(工場)の特性は、「何をつくるか?」があらかじめ決まっている点にある。そしてそれを効率よく、高精度に、間違いなく生産するためのラインが設計され稼働する。
一方ワークショップ(工房)では、「何をつくるか?」はあらかじめ決まっていない。少なくとも設計図のたぐいはない。そこには素材があり、道具があり、「少しでもいいものをつくりたい」意欲を持つ職工が集まって、互いに影響を与えながら働く。
そしてつくり出すべき「なにか」が、その場で模索されていく。
ファクトリーは量産するが、ワークショップは量産のための空間ではない。また前者において、失敗はあってはならないもので決して望まれないが、後者(ワークショップ)では、失敗はむしろ重要な手がかりで、いい失敗を積極的に得るべく試作が重ねられる。
ファクトリー(工場)は、システムを所有し管理する側が大きな影響力と権限を持つ社会を象徴している。その発展は、素人より専門家が、生活者より消費財を供給する側がよりパワフルな社会の深化であった。
一方、ワークショップ(工房)では、一人ひとりの個人が中心で、権限も分散している。
このようにファクトリーという対立概念を置くとワークショップという言葉に込められてきた願いの内実が少し見えやすくなる。
~~~ここまで引用
なるほどーーーって。
これは素敵な一節。
そうそう。
ワークショップは
・あらかじめアウトプットが決まっていない。
・失敗(試作)が歓迎される
・トップに立つ人ではなく、一人ひとりが重要
そうそう。
そうやって「場のチカラ」を高めたワークショップの中から「未来」が始まっていくと僕は思っている。
これは「まちづくり」「地域づくり」の現場、つまりソフトのワークショップでも同じだ。
そしてまさしく、地域における若者(たとえば高校生・大学生)の役割はここにある。
あらかじめアプトプットの決まっていないものを場のチカラを通じて試作し、実際やってみてふりかえること。それはまさしくダイナミックな「学び」でもある。
この本で紹介されているカール・ロジャースの「パーソン・センタード・アプローチ」。
共感、無条件の肯定的尊重、自己一致。
これらの条件が揃うと、その気があろうとなかろうと、より一致する方向へ向かう。たとえ相手がどんな人であろうと、生き物であるなら、聴き手の条件が揃うと語り手の中に自然に発動する動きがある
なるほど。
これはつまり、「発酵」ってことか。
この本のあとがきで、シビれる一言が。
「やり方」の奥には、「あり方」があったわけです。そこがなによりも違うんだなと。働き方方面から掘っていた穴と、かかわり方(ワークショップとかそのファシリテーション)方面から掘っていた穴がそこで貫通します。
その「貫通」した感じ、昨日の「発酵」というキーワードにはありました。「学び」とは何か?っていう方向から掘っていた穴と、「場のチカラ」とか「地域を舞台にした」とかという方向から掘っていた穴が、「発酵」というキーワードでひとつになったような気がしています。
「これは決して偶然ではない。」
そんな感じがするのって悪くないですよね。