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13機目「評価経済社会」
「評価経済社会」(岡田斗司夫 ダイヤモンド社)
歴史的に社会の変化を見るっていうのはとても大切なことだと思います。今回は「学校」というカリキュラムそのものについて。
「シャドー・カリキュラム」という言葉があります。つまり「陰のカリキュラム」です。
~~~ここから引用メモ
「民主主義」も「貨幣経済」も人間とか利益、富といったものを一律に定量的にとらえて考えようというとてつもなく大胆な発想から生まれました。
「民主主義」は、まず一人一票という思い切り方がすごい。
これはみんな自分がどうあるべきか、という自我が確立しているという前提に立つ思想です。つまり、何が自分にとって損か得か、自分は社会に対してどういう態度をとっているのかを、きちんと把握できるのが市民なのです。
もし世の中がうまくいってなかったら、それは自分たちの代表を選ぶときにミスをしたか、彼らの監視を怠ったか、どっちにしてもその責任は自分自身にある、という国民主権にたったシステム。
かつては「身分」として見過ごされてたことが、お金に換算されるようになって、その不自然さが知れ渡ってしまう。農奴とか封建制身分制なんて、もう誰も信じなくなってしまいます。
そして、引き返せない楔を打ち込まれた。「身分制度と無知が支配していた暗黒の中世」「『本当の自由』を知らない、かわいそうな貧乏人たち」
工場でやっている「分業」という概念が、私たちの日常生活まで入ってきました。日常まで工業化され分業された世界、それが「母の待つ暖かい家庭」なのです。
今まで自分たちで作ったものを食べていたのが、生産と消費という二つに分かれてしまいました。
工業中心という発想は、教育システムまで大きく変えてしまいました。19世紀のイギリスの社会学者、アンドリュー・ウールは次のように述べています。
「いったん成長期を過ぎてしまったら、農民の子でも職人の子でも、優秀な工場労働者に仕立てるのは不可能である。若者を、あらかじめ産業制度用に育てられれば、あとの仕込みの手間が大幅に省ける。すなわち公共教育こそ、産業社会には不可欠である。」
これに対して、トフラーはこのように分析しています。
「工場での労働を想定して、公共教育は基礎的な読み書き算数と歴史を少しずつ教えた。だがこれは、いわば『表のカリキュラム』である。その裏には、はるかに大切な裏のカリキュラムが隠されている。その内容は三つ。今での産業主導の国では守られている。
・時間を守ること
・命令に従順なこと
・反復作業を嫌がらないこと
この三つが、流れ作業を前提とした工場労働者に求められている資質だ」
義務教育の目的として、最も大切なことは知識の習得ではなくて、集団生活を学ぶことだ、とはよく言われることです。
が、「集団生活を学ぶ」というのは、実は工場で機械的な集団作業をこなすための練習だったのです。つまり流れ作業員養成用特別システムです。
こうして、日曜日には教会に行き、普段は家族から少しずつ農作業を教わるだけだった子供たちは全員、数年もかかる流れ作業員養成講座を受けることになりました。そしてその成果はめざましく、次々と造られる工場の優秀な工員として、彼らは続々と育っていったのです。
~~~ここまで引用メモ
うわあって。
めちゃめちゃ怖いな、って。
この後、話はアイデンティティの話に進み、めちゃめちゃ面白くなるのですが、今日はここまで。
これが学校の正体ですね。そして、日本がものすごく速いスピードで富国強兵に成功したのも、稲作社会で、ある程度義務教育の3つの要素
・時間を守ること
・命令に従順なこと
・反復作業を嫌がらないこと
これらの素地があったんだろうなあと。
表の目的と別のカリキュラム、すなわちシャドーカリキュラム(陰のカリキュラム)が発動していて、それらが流れ作業員養成システムになっているのだと。
そう考えると、「学校」という制度ができた理由もわかりますし、2010年代の世の中の流れとはズレてきているのもなんとなく理由がつきます。
しかし、僕が、一番驚いたのは、「民主主義」と「義務教育」の矛盾です。
「民主主義」とは、本書にあるように、
一人一人が一票を投じて、自分たちの代表を選ばせ、票の多い者に政治をさせようというシステムです。
たとえば「〇〇会社の中堅サラリーマンであり、〇〇市の市民であり、〇〇国の国民であり、平均的な消費者であり、夫であり、二人の子供の父親である自分」の利益を最も守ってくれそうな人を一人選ぶというのが民主主義です。
このシステムは、自分がどうあるべきか、という自我が確立しているという前提に立つ発想です。
つまり、何が自分にとって損か得か、自分は社会に対してどういう態度をとっているのかをきちんと把握できるのが市民なのです。
そして、世の中がうまくいっていなかったときに、それを自分たちの責任としてとらえる、それこそが「国民主権」です。
いま、我が国に、そんな「市民」たる有権者が何人いるでしょうか?
それはそうです。「民主主義」を掲げながら一方で学校教育では
・時間を守ること
・命令に従順なこと
・反復作業を嫌がらないこと
つまり、「思考停止」をシャドー・カリキュラムとしてひたすらやってきたのです。
かくしてこの国は、「どうせ投票しても何も変わらない」という人が一票を行使したりしなかったりするようになりました。
「民主主義」と「義務教育」の矛盾。
これは仕組まれていたのかもしれません。為政者たちの都合がいいように。
しかし、時代は変わりました。パラダイムシフトの時代です。
ひとりひとりの若者が、考え、実行し、新しいパラダイムと新しい時代をつくっていくこと。
それを始めていくことしかないのだと僕は思います。