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課金したくなる「まなび」の入り口をつくる

島根大学社会教育主事講習 吉賀町実習でのモヤモヤ。

「探究的な学び(たとえばプロジェクト学習)に取り組み、それを言語化して、総合型選抜で(学力的な偏差値よりも)1つ2つ上のレベルの大学へ受かる」

という話を聞くことがある。それって「結果」であって「成果」ではないよね、って思う。

ちなみに「結果」と「成果」についてはこちらから

あくまで、成果は「探究的な学び」のスタイルを身につけること。簡単に言えば、「問い⇒実践⇒振り返り⇒新たな問い」のサイクルを回せるようになることだと思う。

それであれば、大学進学を目指す生徒だけでなく、全ての生徒にとって同じだし、それを目指していくプロセスの中に「まなび」が存在していると思う。

「総合的な探究の時間」を軸にして各教科でも「探究的な学び」(上記サイクルを回す)を実践して、国公立大学に〇人、みたいなのは、あくまで結果であって成果ではない。

この「数値で表せる」という魔力が、結果と成果と取り違えてしまうことにつながるし、成果のための手段としての(探究を含む)授業になってしまう。

このへんの「成果」を共通認識にするために、ルーブリックや観点別評価の指標を言葉にしていくことが必要なのかもしれない。

「地域連携」についても、この視点からすれば、探究的な学びの「具体的題材」としての地域なのだと思う。

「具体的題材≒体験」によって、心が動かされ言語化されて結果としてキーワードが出てくる。それを振り返ることで自らと地域(社会)を知り、その交点に問い(≒プロジェクト)が生まれる。

だからこそ「地域連携」が必要なのだと感じた。五感を働かせて「体験」し、それを言語化するプロセスから「探究」は生まれていくと思う。

これをうまく図解できたらいいなと思うのでやってみようと。

あと『在野と独学の近代-ダーウィン、マルクスから南方熊楠、牧野富太郎まで』(志村真幸 中公新書)

のラストを読んでいて思ったのは「探究的学び」って、最強で最安のエンターテイメントだよなあと。

南方熊楠を代表とする在野の(大学に属さない)研究者たちのモチベーションがどこから来るのか?ってやっぱそれが楽しくてたまらなかったからだと思うんだよね。

そう考えると、義務教育+高校生の授業料無償化って、無課金でエンタメの入り口を作ってくれてて、その後課金したくなる(大学へ進学するとか、本を買うとか、時間を投資するとか)ような「まなび」をつくっていく必要ってあるよなあと。

かつて、キリスト教の伝道師たちがミッションを帯びて(勝手に思い込んで)私立大学を設立したように、「まなび」というエンターテイメントを体感・体現してもらうことをミッションとした「場」をつくっていくっていうのをやってみたいなと思いました。

高校生たちが卒業後に課金したくなるようなまなびというエンタメを売りたいなと。

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