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「機能の混在」が生むまなびの場づくり

島根大学 社会教育主事講習 本気部屋ゼミです。
昨日は最終アウトプットについて、ずっと話してました。
(なんとなく方向性見えてよかったー)

発見だったのは、「意図の時間的射程の長さ」(ヨコ軸⇒長い)と「意図の見えやすさ(見せるかどうか タテ軸⇑見えやすい)」のマトリクスでプロジェクトを整理できるのではないか?ということ。

意図の時間的射程が長く、意図の見えやすいプロジェクト(右上)とは、例えば行政の「総合計画」のような5年計画や、企業の中長期目標を達成するための営業戦略のようなもの。

言い換えれば、目的・目標がハッキリしていて、その意図も言語化(冊子にまでなっている)できているプロジェクトであるということ。

では、「社会教育」のプロジェクトとは、このマトリクス上でどこに位置づけられるのだろうか?

学校教育のように行政予算に寄っているものは当然右寄りとなっているし、民間のボランティアベースで、子ども向けに行われている場づくりに関しては、左下(目的・目標があいまいで、意図を見せない)に位置づけられるのかもしれない。

それは、ひとつのプロジェクトをとってみても、各ステークホルダーに対するコミュニケーションのカタチの違いにも表れてくるのかもしれない。

例・益田市の社会教育課のプロジェクトが、行政向けには「益田に愛着を持つようになった」等のアンケートデータを示していることなど。

そんなアウトプットは面白そうだなと思った。
そんな翌朝の朝活で目の前に来た本がこれ。


『PARKnize パークナイズ 公園化する都市』(OpenA+公共R不動産編 学芸出版社)


ローカル・リユース・フォーラム2024で馬場さんと

この本の「はじめに」(P8-10)にこんな記載がある。

~~~以下引用
「都市は公園化(PARKnize)したがっているのではないか」

公園とは、そもそもそこに居る目的が希薄だったり、曖昧だったりしてよい場である。いい加減さや緩さがあらかじめて許容されている。

既存の都市の中では小さすぎて成立しない規模の商いが、収益圧力の低いパブリックスペースだからこそ可能になっているのかもしれない。

これは何を意味しているのだろうか?

たとえば、道路の目的は進行である。そこを通る人や車、自転車というターゲットに合わせて「歩道」や「車道」としてキャラクタライズ、すなわちデザインがされていた。ひたすら機能を分化し、進行に対する合理性を追求した近代の思考。

この考え方は、デパートでも同じで、ターゲット、つまり客層によって空間のキャラクターを設定してきた。しかし今、空間と目的とターゲットを一直線につなぐ近代の価値観が崩壊している。機能主義の終焉と言い換えてもよいかもしれない。

道路に人が滞留し、小商いが一時的に集積した状態をマルシェと呼び、本来の目的だった進行という機能からは積極的に逸脱し、さらに機能の混在を進めようとしている。

そうしたとき、そこを道路と捉えるより「細長い公園」として捉えた方が圧倒的に都合がいい。
~~~

!!!
「機能の混在」か。

まさに、それじゃないか。「社会教育」という場にあったほうがいいものは。

上に書いたマトリクスのいろんな場にいろんなプレイヤーがいて、目的に向かいすぎていない公園のような空間だからこそ、人が入ってきやすく、予測不可能な出会いがあって、何かが動き始める。

たぶんそんな「空間」と「目的」と「ターゲット」が混在し、(主催者の)意図が見えにくくなっているような状態(あるいは結果として達成される状態)。

そういうのがカギになるのかもしれないなと思いました。

さて。あと1か月とちょっとで講習は終わりますが、部屋のみなさんにはいつもいい問いをもらっていてありがたいです。

最終アウトプット、越えていきましょう。

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