その「学び」にお墨付きは必要ですか?
読書日記『在野と独学の近代』(志村真幸 中公新書)ジュンク堂新潟店で出会ってしまいました。タイムリーすぎる。いまなぜ「私設研究室」なのか?が明確に書いてあってビビりました。
まだ「はじめに」「序章」「第1章ダーウィン」しか読んでないのですが、紹介します。
まず出てくるのは「南方熊楠」です。名前だけしか知らなかった。今となっては師匠的な存在です。和歌山行く理由できました。
南方熊楠は独学、在野の研究者として名高い。以下、この本から引用する。
~~~ここから「はじめに」引用・コメントメモ
大学の研究者のほうが偉くて信頼でき、在野のひとたちは劣っていて怪しいというイメージがあることだ。学問にも「お墨付き」が必要なのである。
明治の日本では、社会の様々な場面で「官」と「民」が分けられた。学問の世界も例外でなく、東京大学をはじめとした国の教育機関に属しているか、そうでないかで大きな差があった。東大は政府と密接に結びつき、そのブレーンとしての役割をもち、官僚養成機関でもあったため、きわめて高い社会的位置づけが与えらえていた。
科学や学問は突出した才能をもつ個人によってのみ担われ、進められるのではない。多数の同じような関心をもつ研究者が共存することで、初めて成立する。
~~~ここまで「はじめに」より引用
たしかに「研究者」=「大学の先生」みたいなところ、ありますよね。そこに異を唱える本書は鋭い。
熊楠はアマチュアとしてイギリスで英文論考を雑誌に投稿するとともに日本語でも雑誌に多数の研究結果を発表して日本に帰国したが、周囲からの視線や評価にずいぶん差があったのだという。
熊楠は、リテラート(文士)とラーネッドメン(学者)を区別し、表現した。 「ラーネッドメン(教育を受けて研究者になった者)」よりもリテラート(独学でたたき上げた学者」のほうがモテるのだと表現した。
たしかに、モテるのは後者だと思う。(笑)
文士と学者が学会で議論し合っていたイギリスから帰ってきた南方熊楠が感じた違和感、か。
めっちゃわかるな。
研究者が国から研究費(あるいは競争的資金)をもらわなければならないとその研究はどうなるのか?って思う。
~~~ここから「序章」より引用
『オクスフォード英語大辞典』によれば、
アマチュアは
1「愛好するもの」愛するを意味するアマーレから派生した言葉
2「娯楽として学ぶ点でプロと区別される」
プロ(プロフェッション)は
プロフェス(信仰告白)という語がもとになっており、修道会に入る際などに、自らの信仰を声に出して示すことを意味した。やがて、神学、法学、医学の分野で専門的な知識を持ち、職業として携わっていることを「明言」しているひとたちがプロと呼ばれていく。そして19世紀後半には、専門的な知識や技術を身に付けることで生計を立てている人たちを広く指すようになったのである。
たとえば、現在でも世界最高峰の科学雑誌として知られる『ネイチャー』は、1869年に創刊されると多くの同好の士を集め、知のネットワークを形成した。こうした学術誌は多数の投稿があることで初めて成立する。そして誌面に出た情報や学説をもとに、活発な議論がおこなわれ、新しい研究が次々と生まれていく。有名/無名、アマチュア/プロの研究者たちが雑誌という場に集うことで、科学は進展していったのである。なおかつ『ネイチャー』のような学術誌はおよそあらゆる分野に存在した。
~~~ここまで序章より引用
「プロ」と「アマチュア」について、なかなか示唆深い指摘であり、「科学」の黎明期には、多くの「アマチュア」がその発展を支えたことがわかる。
もうひとつ「官」と「民」について
~~~ここから序章より引用
明治期の日本で東大の学生が研究に取り組んだとしたら、業績と学歴を積み重ねて、教授というポストに就くことが目標であった。あるいは、柳田国男のように、官僚となって国家や国民に奉仕したいという意識もあったかもしれない。これらは官学/官である。
一方で民間にあって個人的(企業もふくむ)に研究に邁進した場合は、私的な研究であり、私的な利益を目指すとみなされた。「国」と「私」が完全に分けられており、官と民の溝を深くした。
これにたいしてイギリスの場合には、「公」「公共」という概念が手がかりとなる。個人の私的な関心や目標が、多くのひとびとに共有され、やがて全体の利益につながるような状況のことである。国家の利益と切り離せない「官」とは異なるものだが、日本ではいまひとつ理解が進んでいない。牧野や柳田の活動には、一種の「公」的な特徴があり、この点も「官と民のあいだ」という観点から考察する。
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これも大きいですね。「プロ」と「アマチュア」という分断と、「官」と「民」という分断がいまの日本にはたしかにあるよね。
最後に、この本を買ってよかったな、と思う1文を紹介する。
どんな分野でも同じだと思うが、傑出した天才が突如として出現するわけではない。共通する関心をもち、地道にとりくむ人たちが大量にいることで、知識が蓄積され、方法論があみだされ、議論が積み重ねられ、研究状況が進展し、やがてダーウィンや熊楠のような巨峰がうまれるのである
まさに、そういう「場」をつくりたくて、「私設研究室」をつくるのだなあと思った。そんな「場」を一緒につくりたい人、待ってます。
本日の問いかけとしては、その「学び」にお墨付きは必要ですか?ってことです。
私設研究室「まちの研究室 ぷかぷか」第0期研究員・サポーター募集はこちらから。(10月20日まで)