
8機目「レイヤー化する世界」
「レイヤー化する世界~テクノロジーとの共犯関係が始まる」(佐々木俊尚 NHK出版新書)
佐々木俊尚さんの傑作はこれだと僕は思うんですけどね。
1000年のスパンで歴史を眺めるというヘリに乗れる1冊です。
令和元年。
テレビでやっているような、平成の30年を振り返るのもいいけど、世界史の1000年を振り返るのはもっと大切だなあと思います。
そもそも日本って?
もっと言えば「国民国家」とはなんだっけ?
そんな問いから出発したいならこの本です。
「国民国家」というシステムが生まれたのは、ヨーロッパでした。それまでのヨーロッパは辺境の地で、世界の中心はユーラシア大陸でした。「帝国」が東西の交易路を築き、栄えていました。「陸の時代」です。そこでは、多民族が、共存していました。
ヨーロッパは、天候も温暖ではなく、農作物も取れず、その仲間にさえいれてもらえませんでした。
それが、コロンブスによる「新大陸の発見」で事態は急変します。まずは大量の銀を得て、交易に参加し、そこで「産業革命」が起こり、原料の調達と販売のために大量の植民地を必要としました。
その頃は、教会の力も衰え、人々が「よりどころ」を無くしていった時代と重なり、そんな中で「国民国家」は発明されました。
「国民国家」は戦争を生み出しやすいシステムでした。常に境界について争っていました。
佐々木さんは、国民国家の神髄は、「ウチとソトを分ける」というところにあると言っています。
自国と他国を分ける。
その中で、「最大多数の最大幸福」を目指す。
これは今も行われているような途上国での過酷な商品(換金)作物の栽培なども含まれます。
しかし、そんな時代も22世紀まではもたないだろうと佐々木さんは言います。
テクノロジーとそれを基盤にした超国家企業が、プラットフォームという<場>をつくることによって、国家のように「上から」支配するのではなく、超国家企業は「下から」ひとりひとりを支え、また支配するのです。もはや国家には税金を納めません。
レイヤー化された世の中。それは、さまざまなレイヤー(居住地、出身校、趣味・・・)における要素を持つ個人と個人の時代です。
この本の一番の希望は、そこにありました。
「場は、マジョリティとマイノリティを逆転させる。」
そうなんです。
マイノリティのほうが<場>(特にSNSのような場)では、価値を持ちます。
強くつながることができるからです。
なるほどなあ、と。
国民国家が終わり、レイヤー化された世界がやってくる、というか、すでにやってきている。そんな中で、個人はどう生きていけばいいのか。
佐々木さんは、このように言います。
第一に、レイヤーを重ねたプリズムの光の帯として自分をとらえること。
第二に、<場>と共犯しながらいきていくということ。
たとえば、グーグルやフェイスブックを利用しながら、私たちは日々、情報を提供しています。それがビッグデータとなって、彼らのビジネスをより儲けさせます。
一方で、そのようなテクノロジーは複数のレイヤーにまたがる私たちをつなげてくれます。
そのように、多数の層の集合体として自分をとらえ、そのそれぞれの集合体として生きていくということです。
これは、平野啓一郎さんの「私とはなにか?」の分人主義と合わせて読むと、なんか、とらえやすくなるように思います。(9機目で取り上げます)
自分を多層化して生きる。
きっとそういう時代に突入しているのだろうなあと実感できる1冊です。